近江にあった大石(おおいし)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『定本日本城郭事典』によりますと、所在地は「大津市大石中町」、形式は「平城」です。城の歴史は「大石氏は藤原秀郷より出、もと小山氏といったが、大石庄下司職となり、大石氏を称したらしい。応仁の乱に一族討死して断絶、遠縁の小山氏が入って後を継いだ。天文、永禄の頃(一五三二-六九)一族は分数の分家を出し、繁栄し、大石党と称して鹿飛(ししとび)山に築城したこともある。信長の近江平定のに大石氏の嫡流は所領を没収...
View Article近江にあった三尾城(みおのき(みおじょう))の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「『日本書記』天武天皇元年(672)にみえる城。壬申の乱にさいし、近江朝延側は西近江路の守りをかためるためにこの城に籠城、しかし大海人皇子軍に投降した羽田公矢国が出雲臣狛とともに攻め落とした。壬申の乱における大友軍の敗北が、ある意味ではこの落城によって決定的となった。地名や地形条件などから高島郡高島町の三尾崎周辺に、その存在が推定されてきた。198...
View Article近江にあった船木(ふなき)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内の北船木集落に隣接する南北朝期ころの平城。北船木は安曇川が河口付近で北川と南川とにわかれた三角州のなかにあり、古くから湖上交通の要衝として軍事的にも重要な位置をしめていた。現在、城跡には願船寺がたてられているが、水田の空堀跡を入れると約100m四方の方形プランであったことがわかる。船木城は高島七頭(たかしましちがし...
View Article近江にあった八幡(はちまん)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「1585年(天正13)豊臣秀次によって築城された山城。北に琵琶湖、南に近江商人の町をひかえ、とおく蒲生郡を一望する標高283.8mの八幡山山頂にある。最頂部に本丸をもうけ、その南東に二の丸、西に三の丸(西の丸)、北に一段ひくく北の丸、南西尾根上に出丸といった諸郭から構成される。八の字形にひろがる東西の尾根にはさまれた南斜面中腹に、居館跡と屋敷跡と...
View Article近江にあった西山(にしやま)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「高島郡朽木村大字市場(いちば)・荒川境界の西山山頂部(標高356m)に朽木氏によってきずかれた室町後期の山城。1979年(昭和54)地元の中学校教諭が「ほうだい」伝承をもとに発見する。城の西を若狭街道がはしり、東には安曇川下流域を見下ろすことができ、軍事上重要な位置をしめる。遺構は上下の削平地(郭(くるわ))のうち上段にのみ砲弾形の土塁・虎口をも...
View Article近江にあった鯰江(なまずえ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「愛知郡愛東町鯰江にあった佐々木六角氏の一族鯰江氏の居城。鯰江氏は興福寺領鯰江荘の荘官であった家筋で、愛知川右岸の台地上に城をきずき、代々の本拠地とした。この城の古い歴史はあきらかでないが、1568年(永禄11)に織田信長が近江守護職であった佐々木義賢・義治(よしはる)父子を観音寺城にせめたときに、鯰江満介(みつすけ)・貞景(さだかげ)らは義治を鯰...
View Article近江にあった観音寺(かんのんじ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「蒲生郡安土町にあり。標高432.9mの観音寺山(繖山)にきずかれた近江守護職・佐々木六角氏の居城。観音寺城の初見は『太平記』であるが、このときの城は、城というよりも臨時の砦のようなものであったとされている。その後、応仁・文明の乱になると『碧山日録』などに、六角高頼が観音寺城にたてこもるという記事がしばしば記されていることから、この前後に観音寺城は...
View Article近江にあった小脇(おわき)館の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「八日市小脇町にあった近江守護佐々木六角氏の館。すでに1185年(文治元)に守護職となった佐々木定綱の館は小脇にあり、以後、戦国時代に観音寺城が築城されるまで、佐々木氏代々の本拠地であった。1190年(建久元)に源頼朝が、1238年(嘉禎3)には将軍頼経(よりつね)が宿しており、将軍宿泊のときには、『吾妻鏡(あづまかがみ)』に「御儲結構無比類」と記...
View Article近江にあった小谷(おだに)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「東浅井郡の小谷山に存在した浅井氏の居城。小谷山は湖北3郡を一望することができ、近くを北国脇住還がとおり、湖北統治の要地。中世山城の通例として、自然の地形を利用して、山上の所々に各郭(くるわ)が配置されている。その中心部分は東の尾根に存在、南から北へ金吾丸、黒金御門、大広間、本丸、中ノ丸、京極丸、小丸、山王丸とつらなっていた。このほか、最頂部の大獄...
View Article近江にあった小川(おがわ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「城跡のある城山は甲賀郡信楽町小川にあり、小川の町はずれの林道を約20分歩くと山頂につく。信楽の町なみが一望できる位置にある。地元では「東の城」「中の城」とよび、かねてから古城があるとつたえられていた。1974年(昭和49)、老人クラブが植林のため付近をほったところ城の土塁を発見、これがきっかけで78~79年(昭和53~54)にわたり発掘調査を実施...
View Article近江にあった岡山(おかやま)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「近江八幡市牧町の琵琶湖畔、標高187.8mの小高い孤山にある。城主九里氏は1467~77,年の応仁、文明の乱に戦功をたてた九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆が築城した。1508(永正5)前将軍足利義稙に解官された足利義澄をむかえ、同年8月義晴がこの城で生まれる。しかし佐々木氏の謀略によって1520年(永正17)落城、その5年後に九里氏は佐々木氏に...
View Article近江にあった大津(おおつ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「大津城は大津市浜大津の湖岸、琵琶湖汽船浜大津港付近を中心に立地していた。豊臣秀吉が坂本城にかわって大津に城をきずいたのは、1586年(天正14)ころと推定されている。城をうつした理由として、近江をめぐる秀吉の支配が安定したこと、山門の監視から保護への政策変更、ならびに大津の地が北国の物資輸送の集散地であり、大坂とむすぶ枢要の地であったことがあげら...
View Article近江にあった朝妻(あさづま)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「坂田郡米原町朝妻筑摩に存在した城砦。朝妻は浜街道がとおり、朝妻港の所在地でもあり、陸上、水上交通の監視のために古くより平地に城砦が存在していた。天文年間(729~749)には土地の豪族新庄蔵人が修築した。蔵人の子直頼のとき一時六角定頼の属城となったが、浅井長政が六角氏をやぶり、直頼がふたたび守将となる。1571年(元亀2)織田信長が佐和山城を落城...
View Article近江にあった宇佐山(うさやま)城の所在地などのほか、その歴史が知りたい。(滋賀県立図書館)
『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「織田信長は、1570年(元亀元)に越前の朝倉義景を討つための軍事的目的として、家臣の森三左衛門可成(よしなり)に命じて大津の宇佐山(標高336m、大津市錦織町)の頂上に城をきずかせた。城の位置は、北国海道(西近江路)を東にみおろす比叡山系の尾根上にあたる。そして京都と大津・坂本をむすぶ今道越(山中越)と逢坂越の2道をおさえる要害の位置にもあたって...
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