『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「東浅井郡の小谷山に存在した浅井氏の居城。小谷山は湖北3郡を一望することができ、近くを北国脇住還がとおり、湖北統治の要地。中世山城の通例として、自然の地形を利用して、山上の所々に各郭(くるわ)が配置されている。その中心部分は東の尾根に存在、南から北へ金吾丸、黒金御門、大広間、本丸、中ノ丸、京極丸、小丸、山王丸とつらなっていた。このほか、最頂部の大獄(おおずく)にも城砦があり、また西の尾根にも福寿丸や山崎丸があった。両尾根の間の清水(きよみず)谷には浅井氏とその家臣の平時に生活する居館があった。築城は大永初年(1521~)亮政の時代だが、すべての施設が一度にできたのではなく、その後久政、長政の時代に増築により徐々に規模が拡大していった。ひじょうに堅固な山城で六角氏や織田氏の攻撃をたびたびうけたがよくもちこたえた。しかし1573年(天正元)織田信長は本格的な攻撃をかけ、まず大獄が陥落。ついで京極丸、小丸、本丸とせめおとされ、ついに6月28日に落城した。城は浅井氏の旧領とともに羽柴秀吉にあたえられたが、彼は翌年今浜(長浜と改名)に城をきずいて移転したので廃城となった。(後略)(江竜喜之)」とあります。なお、所在地は現在長浜市湖北町伊部になっています。
参考資料: 1 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.128,
参考資料:
2 近江城郭探訪 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県文化財保護協会 2006年 S-2900- 06,
参考資料:
3 滋賀県中世城郭分布調査 7 伊香郡・東浅井郡の城 滋賀県教育委員会∥編集 滋賀県教育委員会 1990年 5B-5200-7,
参考資料:
4 図説中世城郭事典 第2巻 村田修三∥編 新人物往来社 1987年 S-5200- 87,
参考資料:
5 近江の山城ベスト50を歩く 中井均∥編 サンライズ出版 2006年 S-2900- 06,
参考資料:
6 定本日本城郭事典 西ケ谷恭弘∥編 秋田書店 2000年 R-5218-ニ,
参考資料:
7 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80,
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