『定本日本城郭事典』によりますと、所在地は「大津市大石中町」、形式は「平城」です。城の歴史は「大石氏は藤原秀郷より出、もと小山氏といったが、大石庄下司職となり、大石氏を称したらしい。応仁の乱に一族討死して断絶、遠縁の小山氏が入って後を継いだ。天文、永禄の頃(一五三二-六九)一族は分数の分家を出し、繁栄し、大石党と称して鹿飛(ししとび)山に築城したこともある。信長の近江平定のに大石氏の嫡流は所領を没収されて絶え、中家、東家、新家の三分家が続き、中家が本家となった。東殿の大石平左衛門良定は大石中興の祖といわれ、秀吉の朝鮮出兵に山口玄蕃頭に従って出陣。子の兵左衛門一定は、良定の第久右衛門良信の二男良勝はともに浅野采女正長重に仕え、一定は大坂夏の陣に戦死したが、良勝は五百石の軍役にて参加、首二つをあげた。その後、長重に重んじられ、家老となって千五百石、寛永六年(一六二九)長重が常陸笠間に移された時、良勝は武運長久息災延命を祈って大石の佐久奈神社に絵馬一面を奉納している。忠臣蔵の内蔵助は良勝の孫である。」とあります。なお、大津市大石中町は現在大津市大石中になっています。
参考資料: 1 定本日本城郭事典 西ケ谷恭弘∥編 秋田書店 2000年 R-5218-ニ p.216,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3,
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