旧甲賀町(現、甲賀市)の油日(あぶらひ)神社の大宮(おおみや)ごもりの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「九月十三日午後六時から午前〇時まで」で、概要は「氏子をはじめ油業界・崇拝者から献上された油とトーシミによる千数百の燈明は、夕刻から深夜に至るまで点され、境内や参拝者を照らす。豊作祈願の祭りであるが、油日神を祀るところから万燈講として行われるようになったという。各字ごとに設けられた座では御神酒を飲み、境内では氏子青年による神賑行事も加わり祭り気分を盛りあげる。昔は...
View Article旧甲賀町(現、甲賀市)の油日(あぶらひ)神社・氏子周辺の油日祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月一日」で、概要は「三月一日の頭子(とうご)選びから始まり、四月十四日の獅子の出初め式を経て、五月一日の祭礼を迎える。役は騎乗の頭殿(とうどの)以下六十余人から構成され、行列をなして社参する。宮立式・神輿渡御・列結野御旅所での山の舞い引き続いて、頭殿の古式に基づいた幣振りが執り行われる(奴振りとも呼ばれる)。」とあります。
View Article旧土山町(現、甲賀市)の惣王(そうおう)神社・区長宅の太鼓踊りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「七月十一日午前九時」で、概要は「雨乞い踊りとして伝わったもの。明治四十年より五年程度この踊りを休止したところ、旱魃に見舞われた。そこで踊りを復活したところ三日目に雨が降ったといわれている。区長宅で「日のばやし」を踊り、そののち行列して神社に向かう。神社到着後、再び「日のばやし」他七つの踊りを奉納、そのあと瑞雲寺(曹洞宗)の境内で「寺踊り」「仙松踊り」を行う。」と...
View Article旧土山町(現、甲賀市)の瀧樹(たき)神社のけんけと祭り長刀(なぎなた)振りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月三日午後」で、概要は「俗に杣踊りともいう。踊り子は、岩室(甲賀町)・前野・徳原(土山町)から、交代で男の子八名を出し、頭に鳥の毛の冠、絹の黒の振袖に、タッツケ袴の装束である。棒ふり(二人)ササラ(二人)鉦(一人)御幣(一人)小太鼓(二人)の構成で踊る。なお踊りのあいだに、氏子の三部落から、奉納された三十余の花傘を、見物人たちが奪い合う花奪い神事がある。」とあ...
View Article旧土山町(現、甲賀市)の上林(かんばやし)神社の花笠踊りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「四月十五日午後三時」で、概要は「この踊りは、雨乞い踊りでもあり、また病気が流行した時などに奉納し祈願されたともいわれている。総代宅へ集合の後、宮司区の役員・踊り子が列をつくり神社へ向かう。到着後、歌出しの歌で式入り・場ならし・お蔵踊り・神楽踊りを奉納する。休憩後、里の踊り・宝踊り・津島踊りを奉納の後、寺の境内においてお寺踊りを奉納して終了する。」とあります。
View Article旧土山町(現、甲賀市)の大宮(おおみや)神社・氏子周辺の花笠太鼓踊りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「四月十五日午前十時」で、概要は「室町時代末期、雨乞い踊りとして近くの山で踊り始めたといわれ、のち大宮神社の例大祭に境内において奉納されるようになった。神主を先頭に、区長・役員・踊りが行列し、神社に向かう。鳥居前で行列を整え直し、振り込みで神社境内に踊り込む。日野祭り・神楽踊り・大黒祭りを奉納する。終了後はさらに各区長宅で踊って幕を閉じる。」とあります。
View Article旧水口町(現、甲賀市)の八坂(やさか)神社・氏子周辺のの川枯(かわかれ)祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月一日」で、概要は「嶬峨祭りともいう。前日は初老の厄男が獅子頭を持って氏子全戸を廻る。当日は午前中に祭典、午後からは神輿渡御となる。なかでも神輿渡御では若衆六十人が、元禄模様の衣装を着け、野洲川を渡る。川を渡る神輿は壮観である。」とあります。
View Article旧水口町(現、甲賀市)の水口(みなくち)神社・氏子周辺の水口祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「四月十九日~二十日まで」で、概要は「享保二十年(一七三五)に初めて曳山が出され、この時は九基が巡行して、藩邸(加藤家二万五千石)にくり出し、賑わったと伝えられている。その後曳山は一町ごとに建造され、最高時は三十二基を数えたが、現在は十六基存在する。二層露店式人形屋台の構造を持ち、屋上にはダシと呼ばれる作り物を載せるが、毎回趣向をこらして出来を競う。十九日は宵宮祭...
View Article旧甲西町(現、湖南市)の松尾(まつお)神社から御旅所のぼんのこへんのこの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「七月三十一日」で、概要は「夏越しの祓・五穀豊饒・火難厄除けなどの祈願が混然一体となった祭り。直径二メートル余りの茅の輪(笹竹を荒縄で縛る)の前部に御幣一本と茄子三個(串刺し)を付け、その両者の間に、木製黒色の男根(約六十センチ)をぶらさげる。神殿儀式が終わると男子児童が「ぼんのこへんのこ、さあーくえもんのなーすびやーい」と囃しながら、男根をぶらさげた茅の輪を御旅...
View Article旧中主町(現、野洲市)の兵主(ひょうず)大社・氏子周辺の例祭の概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月五日」で、概要は「兵主祭り。三日には当番字の氏神の神前で渡御報告祭を斎行、本社以下十六社の御幣と絹幣を供える。当日は当番字の氏子一同が氏神に参拝後、御幣・絹幣を先頭に兵主大社まで渡御する。神輿・稚児もこれに続く。また郷内各社からも神輿・太鼓が集結し、総計三十基余が参道を渡御。午後の古例祭には兵主十六郷の各社に御幣を頒布し、各御輿に神饌を供して還御となる。」と...
View Article守山市の下新川(しもにいかわ)神社の鮒(ふな)すし切り神事の概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月五日午後一時」で、概要は「すし切り祭り。琵琶湖でとれた鮒の塩漬けにしたもの(鮒鮨に加工する前段階)を当番組の青年(長男)二人が神前において、包丁と賄箸(まなばし)を用いて切り離す。頭・尾・ひれと切断し、胴はいくつかに切り、竹で組んだ祭壇に供える。なお前日と当日には、長刀踊りやかんこの舞いが数回にわたって奉納される(けんけと祭り長刀振り)。」とあります。
View Article守山市の勝部(かつべ)神社の松明(たいまつ)祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「一月八日午後八時三十分奉火」で、概要は「土御門天皇の病気平癒を祈願して、大松明を大蛇にみたてて、これを焼き払ったのが始まりと伝えられている。まず、午後七時頃に修祓が行われ、続いて太鼓渡り、牛玉(しゅうし)参りの後、松明の宮入りとなる。奉火され九分通り燃えると引き出して、神前の小川で消火する。一同は神前で無事に終了したことを奉告する。」とあります。
View Article草津市の老杉(おいすぎ)神社のさんやれ踊りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月三日正午から午後六時まで」で、概要は「中世において五穀豊饒を祈願して奉納された猿楽田楽に起縁し、それを地元の村人が伝承したといわれている。また村人の幸あれと願ったものであるともいわれる。鼓を先頭に、大小太鼓・鐘・ささら・笛・音頭と続き、境内各社の前で稚児踊り・大宮踊りなどが奉納される。また、渡御にも加わる。」とあります。
View Article大津市の天孫(てんそん)神社の大津祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「十月九日夜から十日夕方まで」で、概要は「現行の曳山がみられるのは、十七世紀から。塩屋治兵衛という者が狸の面をかぶり、神殿で踊ったのがはじまりだといわれている。祭りの様子は、十三か町の曳山が神社前に集会し、夕方まで氏子内を巡回するもので、各々の山には、からくりをはじめとして、さまざまな趣向がなされている。」とあります。なお、現在は10月の体育の日の前々日の夜から体...
View Article大津市の建部(たけべ)大社の船幸(せんこう)祭の概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「八月十七日午後五時から九時まで」で、概要は「大正四年の御大典記念事業の一つとして始められた。日本書紀に「日本武尊則従上総転入陸奥国時、大鎮懸於王船従海路廻於葦浦横渡玉浦至蝦夷境」とあり、この故事に基づくものと思われる。本殿前より出輿(大一基・小三基)し、唐橋より船に乗せ、南郷渡御ノ瀬に至り、往復する。」とあります。
View Article大津市の酒井(さかい)神社・両社(りょうしゃ)神社ならびに当番宅のおこぼ祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「一月六日から八日まで」で、概要は「酒井神社・両社神社の両神社で行われる「おこない」。各神社では若干しきたりは異なっているが、およそは次のごとくである。当番(とうや)宅で餅が搗かれ、「おだいもく」といわれる餅と人形による飾り付けが行われる。翌日、神社に奉納され神事がなされる。終わると「おだいもく」の餅は小さく切り分けられ、氏子各町内に配られる。なお、両社神社では、...
View Article旧新旭町(現、高島市)の大荒比古(おおあらひこ)神社の七川(しちかわ)祭りの概要を知りたい。
『近江の祭礼』によりますと、祭礼日は「五月十日午前十一時から午後五時まで」で、概要は「鎌倉時代の領主佐々木信綱がこの地に祖神を祀り、出陣の際には必ず当神社に祈願をかけた。また神明の加護によって戦勝の時は、当社へ十二頭の流鏑馬と十二基の的を献納したのが始まりという。現在も的十二基・樽二振り・流鏑馬・競走馬が献納されている。」とあります。
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