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「落付寺」を調べています。読みは多分「おちつきでら」で俗称だと思います。大阪市内の縁日・夜店の史料を見ると「上町八丁目寺町 落付寺 八・十八・二十一日」とあり、上町八丁目寺町は現在の上本町四丁目に当たり、明治二〇年代の「大阪実測図」で「大念寺・長楽寺・白雲寺・専念寺・誓願寺・源光寺・大福寺・念仏寺・実相寺・天性寺」の十ヶ寺が確認できました。この十ヶ寺のひとつが「落付寺」なのか、十ヶ寺エリア全体を「落付寺」と称したのかがわかりません。またなぜ「落付寺」と呼ぶようになったかの由来についても記したものがあればご教授くださいませ。(大阪府立中之島図書館)

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1. 落付寺(落着寺)について 『大阪府全志 巻之2』によりますと、お問い合わせの「落付寺(落着寺)」は、上町八丁目寺町ではなく、すぐ東隣の八丁目中寺町にあった「天然寺」のことかと思われます。「天然寺」は、現在も「大阪府大阪市天王寺区城南寺町4」に存在します。江戸時代は、上町筋沿いの「上本町八丁目寺町」から東へ「八丁目中寺町」「八丁目東寺町」が続き、この3つの地域がひとまとまりの大きな寺町を形成していました。この寺町が現在の「上本町西4丁目」「上本町4丁目」「城南寺町」に該当します。 ◆『大阪府全志 巻之2』(井上正雄/著 清文堂 1985)  ※大正11年刊の復刻 第一章攝津國 第一節 大阪市 東區  八丁目中寺町(舊上本町八丁目中寺町) p440 天然寺 「天然寺は梅松禪院の北にあり、潮待山と號し、浄土宗知恩院末にして阿彌陀佛を本尊とす。天正十六年四月十八日天然の開創なり。文久三年六月十七日焼失し、同年七月十七日住持善隆檀家の協力を得て庫裏を再建し、明治十年四月八日本堂を再建せり。寺は俗に春餅寺・落着寺又は潮待寺と呼び、菅原道眞の讒せられて筑紫の太宰府に左遷の時、舟を難波の海岸に繋ぎ潮の満つるを待ちし所なるより潮待寺の名を為せりと、其の山號を潮待山とせるも之に因めるものならん。古仏像あり、道眞の其の潮待の暇に刻したるものなりと傳ふ。境内は壹千拾坪を有し、本堂・庫裏・座敷・茶室・寄進所・表門を存す。外に地藏堂あり。」 また、『摂津名所図会大成』に「おちづき寺」の名が書かれています。 ◆『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成』(船越政一郎/編纂校訂 浪速叢書刊行会 1927) 巻之二 p156-157 八丁目中寺町(はつちやうめなかてらまち) 天然寺の横に「世俗おちづき寺ト云」と書かれています。 2.「落付寺(落着寺)」の呼称の由来について なぜ「落付寺(落着寺)」と呼ばれるようになったかの由来についてはっきりと記された資料は、残念ながらみつかりませんでしたが、もともとは「落着天神」に由来しているのではないかと存じます。 ◆『天王寺区史』(川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955) p349 所在地:〔八丁目中寺町〕33 寺名:天然寺 宗派:浄土宗 本尊:阿弥陀仏 創建年月:正伝16.4 戦災の有無:戦災6.1 摘要:俗に落着天神といわれる。 p350 落着天神 「天然寺境内にある潮待天満宮は俗に落着天神と呼ばれるが、御神体は菅公自作の木像といわれ、延喜元年公筑紫左遷の途次船をこの地にとどめ汐待の際作られたという。」  ◆『大阪史蹟辞典』(三善貞司/編 清文堂 1986) p430 天然寺てんねんじ 天王寺区城南寺町 天然寺は山号潮待山、浄土宗知恩院末寺、天正十六年(1588)僧天然が法然上人の念仏道場として開創している。 <潮待天神>しおまちてんじん 境内にある潮待天神社はもと大坂城付近にあり、菅原道真が太宰府に左遷される折暫く滞在して潮待ちをし、荒木で一尺ほどの木像を自刻したものをとどめ、祀った天満宮であった。築城の時天満宮の移し場所に天然寺が選ばれたわけで、それ以後山号を潮待山と改め、今も残る上汐町の名に及んだといわれる。昭和二十年六月一日この木像も含めて天神社、天然寺とも一切焼失、復旧が遅れ長い間ビルの谷間になって凄絶なほどの荒れようであった。しかし昭和五十三年一月悲願はなり、堂々たる本堂が完成、境内、天神社とも整備された。社前に「管原道真公お坐り石」があって、坐れば知恵を授かるとかいわれている。 ◆また、『大阪再発見』というインターネット上の個人の方のサイトの「おちつき天神」の項目は、天然寺の現地説明板『おちつき天神由緒』を参考に解説を書いておられ、参考になります。それによると、「菅原道真が潮待ちのために滞在した地に祀られたため、古くは「潮待天満宮」と呼ばれ、潮待ちのため落着かれたので「おちつき天神」とも呼ばれている。」とあります。 山門の横には「右大臣菅原道真項遺跡 おちつき天神」の碑もあるようです。 「天然寺地蔵堂」の解説には、「1704年(宝永5年)刊の『摂陽奇談』には「大坂地蔵めぐり第24番正覚院おちつき地蔵」とあり、当時から世に知られた存在であったという。」と書かれています。(『摂陽奇談』は『摂陽奇観』の間違いと思われます。) おちつき地蔵についても調べてみましたが、次のように書かれており、「おちつき地蔵」という名称はみつかりませんでした。 ◆『浪速叢書 第3 摂陽奇観』(船越政一郎/編纂校訂 浪速叢書刊行会 1927) 巻之二十四ノ上 宝永5年 一 十二月 大坂地蔵巡リ初ム のところに大坂地蔵巡り順礼所48ケ所の影印収載 p27  「おなじところ(=八丁めなかでらまち)廿四ばん 正覚院(せうがくいん)ざぞう二尺五寸御くしにえしんのさくをおさむ」 とあります。 ※他の寺院では、像の作者とともに、「○○ぢぞう」と地蔵の俗称を書いている場合がありますが、正覚院のところには書かれていません。 以上から考えて、もともと大坂城付近にあった「潮待天満宮(俗称:落着天神)」が、大坂城築城の際に正覚院(天然寺)に移されたことで、寺の境内にあるこの天神社から、天然寺のことも「落付寺(落着寺)」と呼ばれるようになったのではないかと思われます。 事前調査事項:大阪市内の縁日・夜店の史料は、江戸期の見立番付「諸法繁栄夜店賑」(「大阪人」2000年8月号掲載)、明治31年宇田川文海「大阪繁昌誌」(200、368、369頁)、「明治大正大阪市史第3巻」(526頁)で「上町八丁目寺町 落付寺 八・十八・二十一日」が確認できましたので少なくとも明治中期頃までは縁日・夜店が出ていたと思われます。3種の「大阪市史」、「浪速叢書」、「上方」、「大阪春秋」、「大阪史蹟辞典」で「落付寺」及び「大念寺・長楽寺・白雲寺・専念寺・誓願寺・源光寺・大福寺・念仏寺・実相寺・天性寺」について調べましたが手掛かりは見つかりませんでした。また、上方落語「帯久」という噺に「瓦屋町焼け」という火事が「上本町の落ち着き寺」のところで止んだというフレーズが出てきます。 参考資料:大阪府全志 巻之2(ページ:440), 参考資料:浪速叢書 第7 摂津名所図会大成(ページ:157), 参考資料:天王寺区史(ページ:349-350), 参考資料:大阪史蹟辞典(ページ:430), 参考資料:浪速叢書 第3 摂陽奇観(ページ:27), 参考資料:おちつき天神(大阪再発見!)(2013/01/31現在), (ホームページ:http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage987.htm)

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