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次の大阪の運動場についての歴史や戦前から戦後にかけての地図、写真などを探している。地図や写真は、コートやトラックがどこにあるかが分かるものがよい。 1. 中之島公園運動場 2. 大阪市立西区運動場 3. 中百舌鳥運動公園(大阪府立中之島図書館)

Next: 「落付寺」を調べています。読みは多分「おちつきでら」で俗称だと思います。大阪市内の縁日・夜店の史料を見ると「上町八丁目寺町 落付寺 八・十八・二十一日」とあり、上町八丁目寺町は現在の上本町四丁目に当たり、明治二〇年代の「大阪実測図」で「大念寺・長楽寺・白雲寺・専念寺・誓願寺・源光寺・大福寺・念仏寺・実相寺・天性寺」の十ヶ寺が確認できました。この十ヶ寺のひとつが「落付寺」なのか、十ヶ寺エリア全体を「落付寺」と称したのかがわかりません。またなぜ「落付寺」と呼ぶようになったかの由来についても記したものがあればご教授くださいませ。(大阪府立中之島図書館)
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運動場について記載のある次の資料を調査しました。 おたずねは「コート」「トラック」とありますので、陸上競技場だけでなく、他のスポーツ用のコートもあればと探しましたが、あまり記載がなく、陸上競技用トラックが中心になりました。 写真も見つかりましたが、小さなもので、全景が写っているものは少ないです。 ◆<中之島公園運動場> 『なにわのミニスポーツ史』(白銀茂夫/著 丸善株式会社大阪出版サービスセンター 2003) p.115 市体育奨励会事業の一つで中之島運動場が、剣先埋立地に大正4年11月に大阪市によって開場。中之島公園の敷地内に約7500坪の用地を確保し、一般・少年・青年・幼児・婦人運動場の5つに区別され、運動場、バレーボールコート、テニスコート、相撲場、運動器具、遊具等が設置された本格的な運動施設だった。(要約) p.153 旧難波橋の西側にトラックの部分が写った中之島剣先の写真あり。(大正2年以前と思われる) 『七十年史』(大阪陸上競技協会 平成4年) p.19 中之島公園は明治24年につくられ、その時に今の剣先公園の所に簡易な運動広場が作られたが大正5年に神戸YMCAのF・H・ブラウン氏により陸上競技場用の正式なトラックが建設された。公営としての陸上競技場は、全国で最初であった。 『大阪市大観』大正14年 1.公館区 市庁舎を中心とした中之島付近の写真。公会堂の前あたりから、植木で区切られた公園、テニスをしていると思われる人。 『大阪YMCA100年史』(滝口敏行/編著 大阪キリスト教青年会 昭和57年) p.17 中之島公園バレーコートの写真一部分 大正5年 『北区地図』大阪市区分地図 (和楽路屋 1936) 1:8000『明治前期昭和前期大阪都市地図』と同じ形。 『最新の北区』(夕刊大阪新聞) 〔1936〕  1:8000『明治前期昭和前期大阪都市地図』と同じ形。 『最新地番入大阪市地図』昭和26年版 (和楽路屋) p.19 縮尺1:5000 トラックの形はっきり記載。 『大阪の空を飛ぶ』(大阪市広聴課) 昭和34年 p.14 中ノ島公園 剣先部分のはっきりした写真 トラックのような輪郭はわかるが、内側は広場のような感じになっている。 『大阪市公園配置図』昭和41年3月現在 1:20000 トラックの外側の輪郭あり。 『飛んで翔んで大阪 航空写真集』(大阪新聞社 1991) p.23 土の地面のみで、トラックの輪郭なし。1990.10.10撮影。 中之島公園運動場について、地図にはトラックの形が記載されていても、航空写真でみると、広場のようにみえたりしますので、変遷がはっきりわかりませんでした。 ◆<大阪市立運動場> 大阪市営西区運動場は、以下大阪市立運動場として、書きます。 『新修大阪市史』第6巻 (新修大阪市史編纂委員会 大阪市 1994) p.865 第6回極東体育競技大会 大阪では経験のない国際的大行事に備えて、11年6月池上四郎市長を会長とする大阪体育協会を結成した。また会場として西区八幡屋町(現港区)に市立運動場が建設された。200メートルの直線コース、一周400メートルのトラックを中心にプール、野球場、庭球場などを備え、延べ38000平方メートルで、完成当時東洋一と称された。 『七十年史』 (大阪陸上競技協会 平成4年) p.8 新設された大阪市立運動場 陸上競技場のほぼ全景の写真あり。大正12年3月 『日本陸上競技連盟七十年史』(日本陸上競技連盟七十年史編集委員会/編 日本陸上競技連盟 1995) p.368 昭和36年に閉鎖され、現在跡地には見本市会館が建っている。 『大阪百年史』(大阪府/編集 大阪府 1968) p.1155 200メートル(幅10メートル)の直線コース、一周400メートル(幅8メートル)のトラック、それに囲まれたフィールドをもち、南側正面には、座席7000余のコンクリート造り無蓋スタンドにかこまれ、西南隅には50メートル(幅16メートル)のプールが設けられ、これには木造スタンドが設置されていた。 『港区誌』(大阪市港区役所 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956)  p.256 本競技場(アンツーカ仕上)直線100米 一周400米 巾員(8コース)10米 サブトラック(クレイ仕上)直線100米 一周250米 巾員 8米 『最新港区地図 地番入 大阪市区分地図』(和楽路屋 1936)  市立運動場として、トラックの輪郭のみ記載されている。 『極東選手権競技大会記念写真帖 第6回』(時事新聞社/編 十字館 1923)  競技場の写真あり。 『極東体育協会(第六回)選手権競技大会記念写真帖』(大阪体育協会/編 大阪体育協会 1923) 入場式、競技中の写真あり。 『第六回極東選手権競技大会記念』(第六回極東選手権競技大会協賛会 〔1923〕)  競技場の絵葉書 『第六回極東選手権競技大会記念絵葉書』(大阪体育協会 〔1923〕)  ◆<中モズ総合運動場> 『南海沿線百年史』(南海電気鉄道 昭和60年)  p.194-195 南海電鉄創立50周年を記念して行われた建設事業の一つで、昭和12年完成。野球場、テニスコート、陸上競技場、サッカー場、ラグビー場、相撲場など本格的な施設を誇ったが、昭和16年太平洋戦争で中断、20~21年進駐軍に接収され、22年に再開。この地域のベッドタウン化にあわせて、陸上競技場は、住宅団地に変わり、球技場は32年に9ホールのミニゴルフコースと打ちっ放し場へと変身した。のちに、グリーンパークとして貸しグラウンド、ゴルフのミニコースなどレジャーの多様化にも合わせたが、53年にはこれも姿を消した。 『最近の10年 南海80周年記念』(南海電気鉄道株式会社/編集 南海電気鉄道 1965)  p.63 中モズゴルフ打放場の写真 昭和37年7月15日 ゴルフ場拡充・改造、ナイター打放場完成 『七十年史』(大阪陸上競技協会 平成4年)  p.20 南海・中モズ競技場 昭和16年6月建設。全景写真あり。 わが国最初のアンツーカ競技場として建設され、昭和20年8月以降の戦後は、しばらくの間、ここだけが公認競技場。昭和35年閉鎖。 『日本陸上競技連盟七十年史 』(日本陸上競技連盟七十年史編集委員会/編 日本陸上競技連盟 1995)  p.368 昭和37年末に閉鎖され、現在は住宅地になっている。 『堺市精図 北部』京阪神地区全都市地図シリーズ 昭文社 〔1964〕 百舌鳥綜合運動場 トラックの輪郭のみ記載。 『大阪府南部市町別地図集』 堺市北東部 昭文社 1963 百舌鳥総合運動場 トラックの輪郭のみ記載。 事前調査事項: ・『明治前期・昭和前期大阪都市地図』( 清水靖夫/編 柏書房 1995.6) p.87 中之島運動公園配置図(昭和6年当時の配置図) ・『大阪市パノラマ地図』(ワラヂヤ出版[1991])*大正13年刊の復刻 参考資料:国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム(国土地理院)(2013/01/31現在), (ホームページ:http://archive.gsi.go.jp/airphoto/)

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