近世大坂の3つの大火について、以下の資料に掲載が確認できました。
1.天文元年12月14日~15日・泉州堺浦の大火
・『堺市史 第二巻』
P80に以下の記載があります。
年代:天文元年十二月十四日(二水記二十五六日の事かとあり大火数日に亙ったか)
焼失箇所:堺北荘及び南荘
被害:約四千戸(二水記に北荘大概焼亡、南荘三分一焼くと見ゆ)焼死数百人
記録:二水記十二月二十二日條 厳助往年記十一月十四日條
2.嘉永5年12月5日~6日・大坂「上町焼け」
・『大阪建設史夜話』
P127「嘉永五年十二月五日 上町焼
夜四ツ時、つまり晩十時に久宝寺橋東詰北の辺りから出火、西の強風で谷町を越えて法円寺坂まで焼け、翌六日の暮六ツ午後六時に沈下して、二十時間燃え続けた。家数二千四百八十軒・土蔵十八・明家百六十二軒であって、この年の四度の大火は初めより段々に大きくなって、これが最大のものになった。」
・『大阪編年史 第廿二巻』
P112-113には、上町焼けについて書かれたいくつかの史料が引用されています。
たとえば、P112には「夜四ツ半時比ヨリ、久宝寺町橋北詰材木屋ヨリ出火、・・・」(『鍾奇齊日々雑記』より)といった記述があります。
3.寛文6年12月7日~8日・大坂「雑魚場火事」
・『大阪建設史夜話』
P116「寛文六年(一六六六)十二月七日 雑喉場焼け 寛文六年(一六六六)十二月八日 新町焼け
この月七日、雑喉場から出火して、一旦鎮火したが、翌八日戌の刻新町遊廓より出火、猛火となって翌日巳の刻に及び、百四十二町・八千五百二十七軒を焼き、この時の全市のほぼ四分の一を焼土と化したという。(中略)丸十四時間で、当時の大坂の四分の一を焼いたと言うのであるから、新町からどちらの方向へ、どこまで燃えたのかわからないが、余程の大風でも吹いていのたか。これではずいぶん火脚が速くて消火のすべもなかったのであろう。」
・『大阪編年史 第六巻』
P74に、『徳川実記』と『年代著聞集』に掲載された雑喉場の火事についての記述が引用されています。
参考資料:『堺市史 第2巻 本編第2』 清文堂出版 1977.4 (ページ:80),
参考資料:『大阪建設史夜話』 玉置豊次郎/著 大阪都市協会 1980 (ページ:116,127),
参考資料:『大阪編年史 第22巻 自嘉永五年正月至安政三年五月』 大阪市立中央図書館 1976 (ページ:112-113),
参考資料:『大阪編年史 第6巻 自寛文元年正月至元禄十六年十二月』 大阪市立中央図書館 1969 (ページ:74),
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