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日本の戦国時代(近世でも可)の武将の毒殺について、以下の事柄を研究した資料を見たい。 1 何を使ったか(トリカブトや青酸カリのような)。2 どういう症状があらわれたか(嘔吐、下血、浮腫などのような)。3 どういう方法で毒をもったか(食事に混ぜた、茶席で・・などのような)。 蒲生氏郷の毒殺説調査の参考にしたい。(埼玉県立久喜図書館)

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1、2、3のいずれかについて関連する記述のあった以下の資料を紹介した。 「「毒殺」で読む日本史」(岡村青著 現代書館 2005)(志木図ほか蔵)  古代から明治時代までの毒殺事件について詳述している。  戦国編には次の人物があがっている。  小栗満重:酒席で毒酒を飲まされそうになった。小栗正清:酒席で毒酒を盛られた。「鴆毒であったか。」との記述。  足利直義:「黄疸」の病が実は「鴆毒」(「太平記」巻30の記述の引用)。鴆毒についての解説もあり  p99「養老律」の「盗賊律」第7毒薬条の引用あり。この「盗賊律」では毒の種類について「鴆毒、冶葛、鳥頭、附子の類い」と定義している。「養老律」は718年頃編纂(『世界大百科事典 29』p565より)  将軍足利義植:食膳に毒を盛られた。  松永久秀:病気で瀕死の将軍義栄の枕元に鴆酒を置いた。  蒲生氏郷:茶席の振る舞い酒に毒を盛った(「武家盛衰記」)。長倉義興:毒酒を飲まされた。  江戸編にも、徳川家康から孝明天皇まで17の項あり。   『毒薬の博物誌』(立木鷹志著 青弓社 1996)  p150-153「戦国時代の毒殺と鴆毒(チンドク)」の項あり。『太平記』の足利直義が恒良親王に薬と偽って鴆毒を飲ませようとした事例があり、鴆毒について解説されている。  p153-162「蒲生氏郷と加藤清正」の項あり。  「この頃、毒殺の噂が広がったのが蒲生氏郷の死である。として、岡西惟中『蒲生軍記』、『氏郷記』、『医学天正記』、幸田露伴『蒲生氏郷』を紹介している。  「蒲生軍記」所収資料:『朝鮮征伐記2(国史叢書[35]』(大関定祐[著] 黒川真道編 国史研究会 1917)  p374「氏郷毒殺せらる」に症状についての記述あり。  「氏郷記」所収資料:『史籍集覧 9』(臨川書店 1967)  p660「只人シレス毒飼セヨトテ或時毒ヲ飼ヒ玉シトカヤ此毒ヤ祟リケン 去朝鮮征伐ノ頃モ下血ヲ病レケリ猶其ヨリ以下気色常ナラス…」症状について記述あり。  「医学天正記」(『近世漢方医学書集成6 曲直瀬玄朔』大塚敬節 矢数道明編 名著出版 1979 所収) 解説p33-36に「治験例6 蒲生氏郷の下血を診察する」あり。なお、解説p35[附記]には「玄朔の記録はこれらの毒殺説を否定して、なお余りがあろう。(略)氏郷の下血は直腸癌か、潰瘍性大腸炎のようなものであったかと思われる。」とあり。(本文:p162-164)  「蒲生氏郷」所収資料:『蒲生氏郷』(幸田露伴著 改造社 1925)  p156-157「氏郷に毒を飼ったのは三成の誹り三成が毒を盛った讒に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ひたと同じ人が記し、面は黄に黒く、頂頸の傍、肉少く、目の下微し浮腫し…(中略)南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に可惜談笑中竊置鴆毒の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。」とある。  「『続撰清正記』の記述では、清正の最期は病死とも毒殺ともとれるが、『新東鑑』にははっきり毒殺と記されている」とあり。  「続撰清正記」所収資料:『将軍記 2 国史叢書 〔17〕』(黒川真道編 国史研究会 1916)  p449「清正事、病究り相果て無念に候」とあり。  p451「船中より気色不例して、次第々々に病重り…」とあり、症状についても記述あり。  「新東鑑」所収資料:『国史叢書 12 新東鑑』(黒川真道編 1915)  p141-148「(略)加藤肥後守清正病死の事」の項あり。秀頼の代わりに毒入りの饅頭を食べたとのエピソードあり。 『歴史を変えた毒』(山崎幹夫著 角川書店 2000)  p91-102「7 不思議な毒鳥・鴆の正体」の章に、蒲生氏郷毒殺説についての記述あり。  この章で次の論文が紹介されているが、掲載誌は未所蔵。 宮崎正夫「鴆毒について」(「薬史学雑誌 18(2)」p101-106 日本薬史学会 1983) 『毒の文化史』(杉山二郎、山崎幹夫著 講談社 1981)対談形式  p202-212「2 戦国の虚構」に蒲生氏郷の毒殺説について記述あり。  氏郷毒殺説のほか、以下の話が紹介されている。 蜂須賀重鎮が妻の氏姫に一服盛られた。甲斐宗運が孫娘に毒茶を盛られた。小栗判官が七附子の毒酒を盛られた。加藤清正が毒饅頭をすすめられた(鴆毒を盛られた)。  p212-218「3 南蛮毒更紗」に、山田長政が鴆毒を盛られたとする説が紹介されている。 『毒殺』(上野正彦著 角川書店 1999)  p9-15「はじめに -鴆毒」に、鴆毒の説明と、鍋島藩の陶磁器、伊達騒動について若干の記述あり。  p115「毒を見分ける銀釵」の項に、「その昔、砒素や鴆酒あるいは附子などが、毒殺に使われていたが、検出法はなかったから、毒物の種類などは問題ではなく、毒殺か病死かの区別が主であった」とあり、中国の法医学書『洗冤録』にある中毒死の症状などについて記述あり。 『世紀を超えて広がる「毒」』(一戸良行著 研成社 2001)  p92-95「鴆毒」の項に、その毒性について記述あり。  p144-146「山田長政の毒殺」の項に、毒入り膏薬(コブラの毒)を傷口に塗らせたとする説と、盛宴を設けて毒殺(鴆毒)したとする説が紹介されている。  p148-151「御家騒動にかかわる毒」に、伊達騒動及び加賀騒動の記述あり。伊達騒動で使用された毒は鴆毒、加賀騒動の茶釜毒入事件で使用された毒は “砒霜”(三酸化ヒ素)とし、“砒霜”の症状については、「数時間後、胃痙攣・嘔吐・下痢・血圧降下などを起こし、重症ではショック死を招く」等の記述あり。 「毒の事件簿」(齋藤勝裕著 技術評論社 2012)(熊谷市図ほか蔵)  江戸幕府末期、孝明天皇の暗殺説・病死説が紹介されている。  p64-71「第4節 孝明天皇暗殺疑惑」p69に「天皇の筆を舐める癖を利用して、筆に毒(ヒ素?)を塗っておいた」とあり。  p209-210 ヒ素の毒について記述あり。  p197-198 烏毒(鴆毒)について記述あり。 回答プロセス:自館目録を〈毒殺〉〈暗殺〉等のキーワードで検索した結果ヒットした資料を調査した。 〈毒〉に関する資料を調査した。 《Googleブックス》を〈武将 & 毒殺〉で検索した結果ヒットした資料を調査した。 参考資料:「「毒殺」で読む日本史」(岡村青著 現代書館 2005), 参考資料:『毒薬の博物誌』(立木鷹志著 青弓社 1996), 参考資料:『朝鮮征伐記2(国史叢書[35]』(大関定祐[著] 黒川真道編 国史研究会 1917), 参考資料:『史籍集覧 9』(臨川書店 1967), 参考資料:『近世漢方医学書集成6 曲直瀬玄朔』(大塚敬節 矢数道明編 名著出版 1979), 参考資料:『蒲生氏郷』(幸田露伴著 改造社 1925), 参考資料:『現代日本文学大系4 幸田露伴集』(筑摩書房 1971), 参考資料:『将軍記 2 国史叢書 〔17〕』(黒川真道編 国史研究会 1916), 参考資料:『国史叢書 12 新東鑑』(黒川真道編 1915), 参考資料:『歴史を変えた毒』(山崎幹夫著 角川書店 2000), 参考資料:『毒の文化史』(杉山二郎、山崎幹夫著 講談社 1981), 参考資料:『毒殺』(上野正彦著 角川書店 1999), 参考資料:『世紀を超えて広がる「毒」』(一戸良行著 研成社 2001), 参考資料:「毒の事件簿」(齋藤勝裕著 技術評論社 2012),

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