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蒲生氏郷の正室冬姫について書かれた資料を探している。 織田信長の娘(次女か)らしい。(埼玉県立久喜図書館)

Next: インターネット上に奥村綱雄(野村証券中興の祖)の名言と称して記載されている次の3つの文章の引用元を知りたい。 1「株価暴落の原因は供給の過剰にあるんだから、この過剰を吸収するプール機関をつくったらどうかということに一致した。そうしてそれはいいということになったが、それではどのくらい出してくれるかとなったら、10億だという。・・・」 【覚書き|太平洋戦争後の株価暴落時に富国生命社長と日銀総裁にかけあったことについて語った言葉。その後、このプール案は投資信託という別の形で結実する】 2「投資信託法案も通って、第一回の投資信託の募集をどのくらいにしようかということになった。我々としては、10億くらいは軽く消化できると思ったが、私は最大限5億円ぐらいにしてくれと皆に頼んだ。でないと目につきすぎて、せっかくの投信事業も大成するまでに叩かれてしまう。武田信玄ではないが、まず兵を伏してやってくれというわけだ。」 【覚書き|野村証券で投資信託を始めて売り出したときを振り返っての発言】 3「人生に四つの関係がある。長い闘病、浪人、牢獄、放蕩。そのうちどれかを突破した人がモノになる。」 [奥村綱雄の名言|人間を大きくする4つの出来事](埼玉県立久喜図書館)
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まとまった記述のあった以下の資料を紹介した。 図書 『会津女性人物事典』(小島一男著 歴史春秋出版 1992)  p44-45〈織田冬〉の項あり。  「右大臣織田信長三女。永禄4(1561)に生まれた。同13年(1570)冬、父信長の命によって蒲生家に入輿して氏郷の夫人となり、北ノ方と呼ばれた。(略)北の方はこうした不運の歴史を見つつ寛永18年(1641)5月9日、京都において没した。享年81歳。(後略)」とあり。 『尾張・織田一族』(谷口克広著 新人物往来社 2008)  p225-226「信長の娘について」の節に、〈松平信康室と蒲生氏郷室の長幼順〉の項あり。「信長の実娘のうち、実在が確かなと思われる者」として「蒲生氏郷室(冬)」の記載あり。生年に二説あるという記述あり。  p251-252〈その他の娘たち〉の節に、〈夫の死後も貞節を守った冬〉の項あり。なお、死亡時の年齢については「81歳ないし84歳だった」と記述あり。 『徳川家康と戦国武将の女たち』(真野恵澂著 中日新聞本社 1983)  p164-165〈冬姫〉の項あり。「信長の次女は冬姫というが、母の名前は不明である」とあり、次女となっている。 『春嵐 豊太閤もはばかった蒲生氏郷』(山本茂著 東京書房 1959)  p18「氏郷はその冬(永禄12年)の冬に、九歳になる信長の長女(一説には十二歳ともいう)をたまわり、岐阜において婚礼を挙げ、夫妻相たずさえて日野の城に帰っていった」とあり、長女となっている。  p221-231「美貌の夫人」  p222「氏郷夫人の名は今伝わっていないが、信長の長女で世にすぐれた美人であった」とある。  p229「氏郷夫人は天寿を全うして、寛永十八年(徳川三代将軍家光のとき)五月九日八十一歳で京都において没した」とある。 雑誌 大路和子「冬姫 天下人秀吉を袖にした信長の遺娘」(『歴史読本 42(10)通巻686号』p130-133新人物往来社 1997.10)  母の名前および信長の長女であったか、次女であったかは定かではないとの記述あり。 「当地の菩提寺「信楽院伝系図」」の参照あり。墓は京都の智恩寺にあるとの記述あり。 太田浩司「蒲生氏郷室(冬姫)」(『歴史読本 48(5)通巻762号』p108-113 新人物往来社 2003.5)  p108〈冬姫と氏郷〉の項あり。  p113〈氏郷死後の冬姫〉の項あり。 葉室麟「インタビュー『冬姫』運命を切り開いた女人たち」(『青春と読書 46(12)』p32-35 集英社 2011.12)  小説「冬姫」についてのインタビュー記事。 回答プロセス:織田信長関連資料や蒲生氏郷関連資料、会津の人物に関する資料等を調査した。 回答にあげた以外に記述があった資料は次のとおり。 名前の記載はなかったが、冬姫のことと思われる記述のあった資料 『続群書類従 6上 系図部』(塙保己一編 続群書類従完成会 1977)  p127-152「織田系図」  p145 信長長女に「女子 蒲生飛騨守氏郷室」とあるが、名前の記載はない。 『織田信長事典』(岡本良一〔ほか〕編 新人物往来社 1989)  表紙裏「織田氏(「織田氏系譜に関する覚書」(新井喜久夫))」に「女 蒲生氏郷室」という表記があるが、「冬姫」という表記はなし。  p62〈女子 蒲生氏郷室〉の項あり。「冬姫」という表記なし。京都知恩寺に墓があるとの記述あり。 『考証織田信長事典』(西ケ谷恭弘著 東京堂出版 2000)  表紙裏 系図に「女(蒲生氏郷室)」という表記があるが「冬姫」という表記なし。  p244-245〈秀勝の母〉の項に「蒲生氏郷に嫁した信長の女が」という表記あり。「冬姫」という表記なし。なお、この中ではこの「氏郷室」と秀勝を同腹と推測している。  p256〈江戸時代の織田家〉の項に「蒲生氏郷に嫁した女」という表記あり。「冬姫」という表記なし。 『戦国大名閨閥事典 2』(小和田哲男編 新人物往来社 1996)  p27-57〈織田氏〉の項あり。  p31-32江戸時代織田氏の作成になる「織田系図」では長女を徳姫、二女を蒲生氏郷室であるが、東京大学史料編纂所所蔵の坪内定益本「織田系図」によると長女が蒲生氏郷室になるとしている。  p44-45〈蒲生氏郷室〉の項あり。生年に二説あること、それにより長女が二女かが変わってくることの記述あり。法名「相応院月桂凉心」。寛永18年(1641)5月9日没とある。 『史籍集覧 24 武家部 伝記編』(近藤瓶城原編 角田文衛,五来重編 臨川書店 1967)  p92-109「蒲生氏郷記」収録あり。  p107「同(永禄)十二年五月鶴千代丸於岐阜元服号蒲生忠三郎教秀即祝言アリ忠三郎十四歳姫君九歳也」とある。文中の〈姫君〉は〈冬姫〉を指す。 『日本史探訪 16』(海音寺潮五郎〔ほか〕著 角川書店 1976)  p109-30「蒲生氏郷」  p114「この年(永禄12年)の冬、信長は氏郷を日野へ帰し、自分の娘をめあわせた。」とあり、「自分の娘」とは〈冬姫〉のこと。 冬姫の名前が見られる小説類 『蒲生氏郷の妻』(大路和子著 成美堂出版 1997) 『蒲生氏郷』(佐竹申伍著 青樹社 1987) 『蒲生氏郷』(幸田露伴著 改造社 1925) 参考資料:『会津女性人物事典』(小島一男著 歴史春秋出版 1992), 参考資料:『尾張・織田一族』(谷口克広著 新人物往来社 2008), 参考資料:『徳川家康と戦国武将の女たち』(真野恵澂著 中日新聞本社 1983), 参考資料:『春嵐 豊太閤もはばかった蒲生氏郷』(山本茂著 東京書房 1959), 参考資料:『歴史読本 42(10)通巻686号』新人物往来社 1997.10), 参考資料:『歴史読本 48(5)通巻762号』新人物往来社 2003.5), 参考資料:『青春と読書 46(12)』集英社 2011.12),

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