蒲生氏郷の家臣で「町野左近」と呼ばれた人物は「町野幸仍(ユキヨリ)」(文献によっては町野繁仍(シゲヨリ))のようだが、町野幸仍の子幸和(ユキカズ)も「左近」としている文献があることから、この二人について記述のある資料を紹介した。
戦国期の人名事典や蒲生氏郷に関する資料、また、幸仍が山鹿素行の父を世話したことから、山鹿素行に関する資料などにも記述があった。
人名事典
『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編 新人物往来社 1987)
p721〈町野幸和〉(マチノユキカズ)?-1647(?~正保四年)※幸仍の子
蒲生氏の臣、のち徳川氏の臣。(中略)蒲生氏郷に仕え(後略)」とあり。
p721〈町野幸仍〉(マチノユキヨリ)1543-1613(天文12~慶長18)
「蒲生氏の重臣。(中略)氏郷の信任を得て、(後略)」とあり。
『戦国人名辞典』(高柳光寿、松平年一著 吉川弘文館 1984)
p229〈町野幸和〉「(玄蕃允、長門守)」とあり。
p230〈町野幸仍〉「(左近)」とあり。参考文献「寛政譜・武家事紀」とあり。
『三百藩家臣人名事典 2』(新人物往来社 1988)
p92-93〈町野幸和〉の項あり。「蒲生氏郷の家臣の町野幸仍の長男として近江蒲生郡日野町で誕生。通称新三郎。父の幸仍とともに蒲生氏郷に従って天保18年に会津へ入り(以下略)」とある。記述中に「父の左近助幸仍は…」という表現が見られる。
家譜等
『寛政重修諸家譜 18』(続群書類従完成会 1985)
p209〈町野〉の項に〈幸和〉(ゆきかず)の項あり。
その父親の項は〈繁仍〉(しげより)(左近)とあり。没年は上記と一緒。
『断家譜 2』(田畑吉正著 斎木一馬,岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1976)
p215〈町野〉の項〈繁仍〉に、「左近」の記述あり。
p215〈町野〉の項〈幸和〉に、「左近 長門守 生江州、仕蒲生氏郷・秀幸、(以下略)」とあり。
『寛永諸家系図伝 14』(斎木一馬〔ほか〕校訂 続群書類従完成会 1992)
p84〈町野〉の項〈幸仍〉に、「左近」の記述あり。
p84-87〈町野〉の項〈幸和〉に、「長門守」とあり。〈幸仍〉に比べ、詳細な記述あり。
『干城録 11』(林亮勝校訂 坂本正仁校訂 人間舎 2001)
p28-33〈町野〉の項に、〈幸和〉〈幸仍〉の名が見られる。
『徳川諸家系譜 1』(斎木一馬校訂 岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1982)
p204〈町野氏 三善姓〉の項に、「三男左近繁仍、此子幸和也」とある。
系図では、〈幸和〉の父は〈幸雄〉「始名左近 町野長門守 或幸長」となっている。
『武家事紀 上』(山鹿素行著 原書房 1982)
p720(「蒲生氏郷家臣」中)〈町野左近幸仍〉の項あり。「長門守幸和父」との表現あり。
会津関連資料
『会津人物事典 武人編』(小島一男著 歴史春秋出版 1993)
p306〈町野左近〉「幼時に蒲生家重臣町野備前守の養子となり、長じて蒲生家に仕えて町野左近将監繁仍といった」とあり。
p310〈町野幸和〉「蒲生の臣で二本松十三万八千石町野左近将監繁仍の長子」とある。
蒲生氏郷関連資料
『蒲生氏郷』(池内昭一著 新人物往来社 1986)
p199-200〈町野左近将監繁仍〉について記述あり。
『蒲生氏郷 近江・伊勢・会津を駆けぬけた戦国の智将』(横山高治著 創元社 1991)
p153「譜代の町野左近助に二本松城一万八千石」とある。
p166「秀吉は、氏郷の死後二日目の文禄4年(1595)2月9日、嫡男、鶴千代に氏郷の遺領九十二万石を嗣がせた」とあり、朱印状に指示のあった十三人の城主の一人として〈町野繁仍〉の名があげられている。
『現代日本文学大系 4 幸田露伴集』(筑摩書房 1971)
「蒲生氏郷」p250他に〈町野左近将監〉の名があらわれる。人物についての記述もあり。
『氏郷とその時代 蒲生氏郷基礎資料集成』(福島県立博物館編 福島県立博物館 2002)
p17「蒲生氏郷発給文書」中に「町野左近助」宛てのものあり。
『日本の武将 52 蒲生氏郷』(人物往来社 1967)
p227表「蒲生氏郷天正十九年重臣構成」中に「町野繁仍」あり。知行:18,000石、支城:二本松城、備考:左近助とあり。
p229にも町野繁仍の名があらわれる。
『白河市史資料集 3』(白河市史編さん委員会編 白河市史編さん委員会 1963)
p1「蒲生飛騨守氏郷書状」の宛先の一人に「町野左近助」あり。
山鹿素行関連資料
『山鹿素行』(人物叢書)(堀勇雄著 新装版 吉川弘文館 1987)
p11-14 山鹿素行の父貞以(さだもち)が世話になった人物町野幸仍及びその子幸和について記述あり。
『山鹿素行の研究』(中山広司著 神道史学会 1988)
p8-9、p18(注)に町野幸仍について記述あり。
回答プロセス:戦国期の人名事典を調査し、蒲生氏郷の家臣である「町野」は〈町野幸仍〉〈町野幸和〉2名いることがわかる。
《WHOPLUS》を〈町野幸仍〉で検索したところ、《人物レファレンス事典》の情報がヒット。導かれる事典は上記の『戦国人名事典』『戦国人名辞典』のみ。
家譜等を調べる
蒲生氏郷から探索する
次の資料には記述なし
『史籍集覧 24 武家部 伝記編』(近藤瓶城原編 角田文衛,五来重編 臨川書店 1967)
p92-109「蒲生氏郷記」ざっと見るが、〈町野〉〈左近〉〈繁仍〉〈幸和〉の文言は、見あたらなかった。
『奥羽仕置と豊臣政権』(小林清治著 吉川弘文館 2003)索引に〈町野〉なし。
『春嵐 豊太閤もはばかった蒲生氏郷』(山本茂著 東京書房 1959)記述なし。
『蒲生氏郷』(佐竹申伍著 青樹社 1987)
近江(滋賀県)・会津(福島県)から探索する
(会津(福島県))から
『福島県史 22 人物』(福島県編 福島県 1972)
第1編「人物」の中には質問の人物なし。
第2編「人名索引」には〈町野右近助繁仍〉〈町野玄蕃助〉〈町野左近〉〈町野左近助〉〈町野繁仍〉〈町の長門守〉〈町野長門守幸和〉の項あり。該当する県史を確認する。
『福島県史』2巻と3巻は貸出中であったが、返却後確認したところ、名前があがっている程度の記述であった。
『福島県史 8 資料編』(福島県編 臨川書店 1985)
p844 「天正18-文化6年中新城村小針家駒付役由緒」中に「町左近」の名があわれる。
『福島県史 10上 資料編』(福島県編 臨川書店 1986)
p4-5「寛永20年8月二本松領目録」に「町野長門守」の名があらわれる。
p867「文政13年3月田村郡飯豊村領主歴代」に「白川城代町野長門」の名があらわれる。
『福島県史 10下 資料編』(福島県編 臨川書店 1986)
p7「文禄4年6月会津知行目録」に「町野左近助 重仍」の名があらわれる。
p8「会津古事伝略記」に「町野長門守殿」とあり。
p65「文禄4年7月条々」に「町野左近助殿(繁仍)」とあり。
(近江(滋賀県))から
次の資料には記述なし
『滋賀県史 3 中世-近世』(滋賀県編 清文堂出版 1972)
『近江八幡人物伝』(江南良三著 近江八幡市郷土史会 1981)
『郷土歴史人物事典滋賀』(渡辺守順著 第一法規出版 1979)
雑誌記事を探す
『歴史読本 2008年5月』(新人物往来社 2008年5月)
別冊付録「職豊系城郭見どころ事典」p10〈二本松城〉に、「蒲生郷成、町野繁仍、町野幸和が城代として入れ置かれた」との記述あり。
《国会図書館リサーチナビ》を〈町野繁仍〉〈町野幸仍〉で検索したところ
「山鹿素行とその誕生」(前田, 恒治,前田恒治 著 培風館 1941)がヒットするが県内に所蔵なし。
「町野幸仍」「幸和繼ぐ 」という項があるもよう(目次情報より)
上記を踏まえ〈山鹿素行〉から探索する
参考資料:『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編 新人物往来社 1987),
参考資料:『戦国人名辞典』(高柳光寿、松平年一著 吉川弘文館 1984),
参考資料:『三百藩家臣人名事典 2』(新人物往来社 1988),
参考資料:『寛政重修諸家譜 18』(続群書類従完成会 1985),
参考資料:『断家譜 2』(田畑吉正著 斎木一馬,岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1976),
参考資料:『寛永諸家系図伝 14』(斎木一馬〔ほか〕校訂 続群書類従完成会 1992),
参考資料:『干城録 11』(林亮勝校訂 坂本正仁校訂 人間舎 2001),
参考資料:『徳川諸家系譜 1』(斎木一馬校訂 岩沢愿彦校訂 続群書類従完成会 1982),
参考資料:『武家事紀 上』(山鹿素行著 原書房 1982),
参考資料:『会津人物事典 武人編』(小島一男著 歴史春秋出版 1993),
参考資料:『蒲生氏郷』(池内昭一著 新人物往来社 1986),
参考資料:『蒲生氏郷 近江・伊勢・会津を駆けぬけた戦国の智将』(横山高治著 創元社 1991),
参考資料:『現代日本文学大系 4 幸田露伴集』(筑摩書房 1971),
参考資料:『氏郷とその時代 蒲生氏郷基礎資料集成』(福島県立博物館編 福島県立博物館 2002),
参考資料:『日本の武将 52 蒲生氏郷』(人物往来社 1967),
参考資料:『白河市史資料集 3』(白河市史編さん委員会編 白河市史編さん委員会 1963),
参考資料:『山鹿素行』(人物叢書)(堀勇雄著 新装版 吉川弘文館 1987),
参考資料:『山鹿素行の研究』(中山広司著 神道史学会 1988),
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