青山備前守と松平大膳大夫については、該当する人物の経歴・石高等記述のある資料が見つかったが、遠藤右近将監については人物の特定ができなかった。
青山備前守と松平大膳大夫について記述のあった以下の資料を紹介し、回答プロセスを報告した。
【青山備前守】青山幸覃(あおやま よしひろ)
『寛政重修諸家譜 12』(続群書類従完成会 1965)
p98〈青山幸覃〉(よしひろ)(享保元年吉宗にはじめて拝謁、天明三年死去)。
「寛保二年九月三日大番頭へすすみ、延享四年十二月十五日御留守居に転じ(後略)」と経歴あり。石高はなし。
『江戸幕府役職武鑑編年集成 11(延享3年-宝暦6年)』(深井雅海、藤実久美子編 東洋書林 1997)
「延享武鑑」p6の〈大番頭〉の項に、「青山備前守幸覃」の名あり。「五千五百石」とあり。
『徳川実紀索引 人名篇 上』(徳川実紀研究会編 吉川弘文館 1972)
p8〈青山幸覃〉の項あり。
「紀伊御使⑧656、658、⑧436 ⑨387、485」とあり。(うち、延享三年の部分は次のとおり)
『国史大系 46 徳川実紀 9』(黒板勝美、国史大系編修会編輯 吉川弘文館 1991)
p387(下段)(延享三年五月の項)「大番頭青山備前守幸覃。松平大蔵少輔勝尹共に。二条城戊役果て帰り謁す。」とあり。
『大日本近世史料 〔7〕索引2 柳営補任 索引 下』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1983)より
「青山幸覃」
1巻〈留守居〉p126〈青山備前守〉
1巻〈大番頭〉p145〈青山備前守〉
1巻〈書院番頭〉p227〈青山丹後守〉
2巻〈中奥小性〉p248〈青山監物〉「高五千石」とあり。
【松平大膳大夫】長州萩藩主毛利宗広(もうり むねひろ)
『寛政重修諸家譜 10』(続群書類従完成会 1984)
p232-251〈毛利〉(長門萩)
p249〈宗廣〉(むねひろ)あり。大膳大夫を勤めている。経歴あり。石高なし。
『藩史大事典 6 中国・四国編』(木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1990)
p352(萩藩中)〈毛利宗広〉の項あり。石高は「369411」とあり。受領名または官名の項に「大膳大夫」とあり。
『三百藩藩主人名事典 4』(藩主人名事典編纂委員会編 新人物往来社 1986)
p171-172〈毛利宗広〉の項あり。「(もうり むねひろ・1717-1751)=長門萩(長州)藩三十六万石毛利家第六代当主。」「享保十五年十二月画加冠して将軍吉宗より一字を与えられ宗広と称し、従四位下、大膳大夫に任じられた。」「寛保二年には幕府から利根川工事の手伝普請など大事業を命じられ」とあり。
『近世防長人名辞典』(吉田祥朔著 マツノ書店 1976)
p236〈毛利宗広〉の項あり。
『防長人物誌』(近藤清石編 御薗生翁甫校訂 マツノ書店 1984)
p48-49〈毛利宗広〉の項あり。
回答プロセス:『熊谷市史』の調査
『熊谷市史 後篇』(熊谷市史編纂委員会編 熊谷市 1964)
p51-52に「熊谷宿の本陣騒動」の項あり。該当の事件について記述あり。
出典は三田村鳶魚の「未刊随筆百種」とのこと。
関わった人物のうち「青山備前守」と「松平大膳大夫」の名は現われるが、「遠藤右近将監」の名は現われない。「青山備前守」は「大番頭役」とあり。
また現われた2名については「松平大膳大夫は、長州藩萩毛利元広でないかと思われる。青山備前守は旗本であろうが未考である。」とあり。
『未刊随筆百種』を確認
『未刊隨筆百種 10』(三田村鳶魚校訂 臨川書房 1969)
p348-352「武州熊谷駅本陣追放の事」の項あり。
〈松平大膳大夫〉についての調査
上記『熊谷市史』にある「長州藩萩毛利元広」(実際には宗広)を探し、回答の情報を得る。
〈青山備前守〉についての調査
『寛政重修諸家譜 26 索引』の呼称索引(国名の部)p35「備前守」の項に「青山」は2名あり。
青山秘成 12-97
青山幸覃 12-98
『寛政重修諸家譜 12』(続群書類従完成会 1965)
p97〈青山秘成〉年代が違う(享保17年に死去) 延享には生きていない。
p98〈青山幸覃 よしひろ〉年代はあう(享保元年吉宗にはじめて拝謁、天明三年死去)。「寛保二年九月三日大番頭へすすみ、延享四年十二月十五日御留守居に転じ(後略)」とあり。
『大日本近世史料 〔7〕索引2 柳営補任 索引 下』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1983)
p72〈備前守〉の項によると、〈青山〉は「青山幸敬」「青山幸詮」「青山幸覃」「青山幸能」の4人。
※時代が合うのは「青山幸覃」のみ
「青山幸覃」(回答参照)
〈遠藤右近将監〉についての調査
『寛政重修諸家譜 26 索引』の呼称索引(官職名の部)の〈右近 大夫・将監・介・之助〉の項に〈遠藤〉はなし。
『寛政重修諸家譜 9』(続群書類従完成会 1984)
p128〈遠藤胤將〉あり。質問の遠藤右近(左近?)将監の年代に近い。
項目中に「将監」の記述なし。
※『江戸幕府役職武鑑編年集成 11(延享3年-宝暦6年)』の〈青山備前守〉の隣りに名前あり。
《東京大学史料編纂所》を〈遠藤 & 将監〉で検索すると、左近将監が多数ヒット。
※〈左近将監〉の間違いか。
〈左近将監〉であると仮定して調査すると
『寛政重修諸家譜 26 索引』の呼称索引(官職名の部)の〈左近 大夫・将監・介・之助〉の項に〈遠藤〉はなし。
『大日本近世史料 〔7〕索引2 柳営補任 索引 上』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1983)
姓名索引の〈遠藤〉に「左近将監」とあるのは、〈遠藤胤富〉のみ
1巻〈大番頭〉p144〈遠藤左近将監〉「享和ニ戌十二月廿四日四番組ヨリ同三亥六月七日辞」とあり。
『寛政重修諸家譜 9』(続群書類従完成会 1984)
p129〈(遠藤)胤富〉の家系で時代が一致するのは〈(遠藤)胤将(たねのぶ)〉
この遠藤胤将は、近江の三上藩主(滋賀県)
『三百藩藩主人名事典 3』(藩主人名事典編纂委員会編 新人物往来社 1987)(前述)
『野洲町史 2 通史編』(野洲町(滋賀県) 1987)
p188-「東氏遠藤家」の章に記述あり。p198に「胤富」の名があがっているが、「左近将監」との記述はなし。
本陣に関する資料の調査
『中山道安中宿本陣文書』(安中文化会 1972)
「御大名様方御泊御休帳」(寛保元年五月より安永七年四月迄)
p622-〈延享3年〉の項目あり。
p623「4月21日」に、「青山備前守様 御泊」とあり。
p624「4月24日」に、「松平大膳大夫 御休」とあり。
〈右近将監〉〈左近将監〉について
『国史大辞典 7』(吉川弘文館 1986)
p500〈将監しょうげん〉の項あり。
「左右近衛府の第三等官。」「平安時代中期以降はその数は増え、十数人に及んだ。」との記述あり。
参考資料:『寛政重修諸家譜 12』(続群書類従完成会 1965),
参考資料:『江戸幕府役職武鑑編年集成 11(延享3年-宝暦6年)』(深井雅海、藤実久美子編 東洋書林 1997),
参考資料:『徳川実紀索引 人名篇 上』(徳川実紀研究会編 吉川弘文館 1972),
参考資料:『国史大系 46 徳川実紀 9』(黒板勝美、国史大系編修会編輯 吉川弘文館 1991),
参考資料:『大日本近世史料 〔7〕索引2 柳営補任 索引 下』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1983),
参考資料:『寛政重修諸家譜 10』(続群書類従完成会 1984),
参考資料:『藩史大事典 6 中国・四国編』(木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1990),
参考資料:『三百藩藩主人名事典 4』(藩主人名事典編纂委員会編 新人物往来社 1986),
参考資料:『近世防長人名辞典』(吉田祥朔著 マツノ書店 1976),
参考資料:『防長人物誌』(近藤清石編 御薗生翁甫校訂 マツノ書店 1984),
参考資料:『中山道安中宿本陣文書』(安中文化会 1972),
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