関連の記述があった下記の資料を紹介した。
1 森玉岡について
『埼玉大百科事典 5』 (埼玉新聞社 1975)
p129「もりぎょくこう 森玉岡(1798-1853)」
「漢詩人。江戸の人。名を兼、字名を子兼、別名を笠翁といい、書画にも達した。(以下略)」
『羽生市の文化財』(羽生市教育委員会 1989)
p40「森玉岡翁墓碣銘の碑(史跡)」
「森玉岡は寛政十年(1979)江戸に生まれ、若いころからすでに詩・書・画にすぐれていた。(以下略)」 碑文の簡単な詳細と写真あり
『埼玉県教育史 1』(埼玉県教育委員会 1968)
p169羽生市「寺子屋一覧」に森玉岡の「毘沙門堂」あり
「所在地:埼玉郡上羽生村、名称:毘沙門堂、師匠氏名:森謙、異称:子謙、玉岡、笠翁、陶斎、身分:武士、生年:寛政十、没年:嘉永六、行年:五十六、開業期:天保末、廃業期:嘉永三、備考:菊池五山に師事」
p373「漢学塾一覧」
森玉岡「毘沙門堂」あり ※上記と同じ内容
自館作成データベース《埼玉関係人物文献索引》を〈森玉岡〉で検索したところ、下記の資料に記述があった。
『羽生市史 上』(羽生市 1971)
p657-660「(ニ)森玉岡」
柳八重「北武羽生地方文学開拓者森玉岡翁」(『埼玉史談 8(3)』p32-34 国書刊行会 1973)
中島悦次「森玉岡の小傳」(『埼玉史談 8(4)』p54-59 国書刊行会 1973)
p56に碑文、p59に系譜あり
「前号「森玉岡の小傳」の正誤」(『埼玉史談 8(5)』p66 国書刊行会 1973)
2 清水卯三郎との関わりについて
『焔の人・しみづうさぶらうの生涯 自伝“わがよのき上”解題』(長井五郎著 さきたま出版会 1984)
p27「この頃、前にいうたる川俣村の堀越氏、江戸の人 もりぎょくこう 森玉岡という漢学びの大人(ウシ)を伴い来たり、その村に学塾を開き、その子定七をはじめおちこちの子らを集め学ばせたり。己れも常吉兄も通い学び足り。(以下略)」 とあり。
注釈に森玉岡の簡単な略歴あり。
p40「さる程に川俣の森玉岡大人、書画会というを催し、己れにも、「何か書き綴りて出だせよ」と申しおこせしかば、いで、日頃学びしことを表わさんと、羽生の里の産土(ウブスナ)の天神宮の社の後に植えたる梅の木に寄する、漢文の五百字余りをかい綴り掲り出だせり。(以下略)」とあり。
『しみづうさぶろう 郷土・羽生の先覚者』(渡辺隆夫 1999)
p23-24「漢学への目覚め」
森玉岡について記述あり。
『しみづうさぶらう畧伝』(長井五郎 1970)
p23-24「熊谷の西、久保島村の森田家にあづけたかと思うと、川俣村(現・羽生市の一部)堀越宅に通わせて、江戸から下ってここにいた森玉岡にちおて漢学を学ばせてもいるのである」とあり。
『焔の人しみづうさぶろう展 第11回特別展』(羽生市立図書館・郷土資料館 1996)
p3「また羽生では森玉岡翁の教化を受け、一時は漢学の師匠になろうかと思うほどになった。」とあり。
『志みづうさぶらう 清水卯三郎没後100年記念展 焔のごとく生きて 特別展 第34回』(羽生市立図書館・郷土資料館 2011)
清水卯三郎の年表に「「西暦:一八四五、和暦:弘化二、年齢:一七、清水卯三郎に関する事項:森玉岡に漢学の教えを受け、学ぶ愉しさを知る。」とあり。
回答プロセス:その他調査済み資料。該当の記述がなかったもの。
『清水卯三郎の生涯 日本万博開催の建白など新風吹き込む』(長井五郎著 戸田市青少年相談員協議会十五周年記念実行委員会 1980)
『先に進みすぎた男 清水卯三郎伝』(伊達一雄 2010)
参考資料:『埼玉大百科事典 5』 (埼玉新聞社 1975),
参考資料:『羽生市の文化財』(羽生市教育委員会 1989),
参考資料:『埼玉県教育史 1』(埼玉県教育委員会 1968),
参考資料:『羽生市史 上』(羽生市 1971),
参考資料:『埼玉史談 8(3)』(国書刊行会 1973),
参考資料:『埼玉史談 8(4)』(国書刊行会 1973),
参考資料:『埼玉史談 8(5)』(国書刊行会 1973),
参考資料:『焔の人・しみづうさぶらうの生涯 自伝“わがよのき上”解題』(長井五郎著 さきたま出版会 1984),
参考資料:『しみづうさぶろう 郷土・羽生の先覚者』(渡辺隆夫著 1999),
参考資料:『しみづうさぶらう畧伝』(長井五郎 1970),
参考資料:『焔の人しみづうさぶろう展 第11回特別展』(羽生市立図書館・郷土資料館 1996),
参考資料:『志みづうさぶらう 清水卯三郎没後100年記念展 焔のごとく生きて 特別展 第34回』(羽生市立図書館・郷土資料館 2011),
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