『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「やまがた・ていさぶろう」で、略歴は「1858(安政5)・12・17~1940・1・18。社会教育家、出版人。甲賀郡水口村(現甲賀市水口町)生まれ。水口藩藩士山県順の三男。末弟は五十雄。1872年上京、1879年東京師範学校卒業。教師生活を経て、1884年文部省に入り、博物学教育とその教授法を研究した。1886年文部省を辞職した後は、多くの教科書や科学啓蒙書を執筆。1888年雑誌「少年園」を創刊。近代児童雑誌の源流と評価されている。さらに、1895年雑誌「少年文庫」(のち「文庫」と改題)、1895年「青年文」を創刊。「文庫」は青少年の文藝投書雑誌であり、同誌から河井酔茗、横瀬夜雨、伊良子清白ら多くの文学者が育ち、同誌育ちの詩人は文庫派と称された。「青年文」は、弟五十雄とその友人田岡嶺雲が編集する文藝評論雑誌であり、日清戦争後の文壇を論評し異彩を放った。(中略)1898年内村鑑三の「東京独立雑誌」発刊を支援し、韓国人留学生やフィリピン独立運動を支援、五十雄とともに社会改良団体理想団に参加、動物虐待防止協会に加盟するなどした。こうした活動の変化は彼の出版物にも及び、1895年内外出版協会の事業を拡張した後には、家庭改良、言文一致、社会主義に関する出版が目立つようになる。堺利彦の『家庭の新風味』(1901~02年)(中略)等。しかし、日露戦争前後から進歩的社会改良家の面影は弱まり、個人の道徳的修養を目指した出版物が増加する。自らスマイルズの『自助論』(12年3月)を翻訳、また『偉人研究言行録』80巻を刊行した。この頃、家族の相次ぐ死と会社の経営不振に悩まされていたが、14年遂に内外出版協会は倒産した。植村正久より洗礼を受ける。韓国の京城で「Seoul Press」の主筆を勤めていた五十雄の勤めで、16年韓国に渡り延礼専門学校、梨花女子専門学校で教鞭をとる。29年70歳を期に職を辞し、帰国。34年自伝を執筆、後年『児孫の為めに余の生涯を語る』(87年7月、弘隆社)と題して改行された。(森﨑光子)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.363-364,
参考資料:
2 滋賀県人物・人材情報リスト 2011 日外アソシエーツ∥編集 日外アソシエーツ 2011年 LB-2800-11,
参考資料:
3 人物レファレンス事典 文芸篇 日外アソシエーツ株式会社∥編 日外アソシエーツ 2010年 R-9103-ニ,
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