『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「なかい・よかろう」で、略歴は「1906・12・31~1987・5・5。俳人。滋賀郡堅田町(現大津市本堅田)の酒造家の長男に生まれる。大津市本堅田居住。本名幹太郎(みきたろう)。1918年滋賀郡堅田町堅田尋常高等小学校尋常科修了。県立八幡商業学校(現八幡商業高等学校)卒業。父早世のため、25年湖西で代々有名な家業を継ぐ。浪の音酒造株式会社代表者。35年ごろより奥村王水(おうすい)(歯科医)、若城一光(いっこう)(銀行員)らとともに「ホトトギス」に投句を始め、しだいにその実力を高浜虚子に認められるようになった。47年11月虚子が亡母50年忌を比叡山で修した際、余花朗が自宅を数日間虚子らに提供。11月8日虚子と一行は浮御堂、本福寺、堅田内湖あたりを散策、11月9日、余花朗をはじめ堅田ホトトギス会の錦織吐月(とげつ)(郵便局長)、竹端糸遊(しゆう)(銀行員)、堺井浮堂(自営業)、その他の若手が高浜年尾の指示をも受け、びわ湖船上俳句会を開催した。(中略)49年余花朗は「ホトトギス」同人となる。52年秋、虚子の句碑(中略)を浮御堂近くの湖中に建立。53年比叡山延暦寺の要請もあり、横川(よかわ)に「虚子之塔」を建設するのに尽力、虚子の没する59年まで逆修法要をいとなんだ。虚子没後は、この10月14日の法要(墓前祭)を「西の虚子忌」(中略)として毎年横川の元三(がんさん)大師堂でとり行ない、同時に開催される俳句会の世話もした。(中略)後年余花朗の堅田のみならず県下のホトトギス会ならびに俳句界につくした功をたたえ、義兄竹端糸遊の発起により浮御堂(海門山満月寺)境内に(中略)句碑が建立された。62年から82年まで滋賀文学会理事〈俳句部門選者〉。著書に『句集浪の音』(67年1月、私家版)、『波の音』(82年1月)。(後略)(山本洋)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.234-235,
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