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吉村正一郎の読み方とその略歴を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「よしむら・しょういちろう」で、略歴は「1904・2・17~1977・12・9。新聞人、翻訳家、評論家。甲賀郡(現甲賀市)水口町に吉村平造・友の長男として生まれる。号雨眠堂主人、雨眠散人。(中略)正一郎の実弟に映画監督で有名な公三郎がいる。1921年京都府立第二中学校4年生修了後、第三高等学校文化丙類に入学、三好達治、丸山薫、桑原武夫、貝塚茂樹、中村吉治らと同じ教室で学ぶ。(中略)25年、京都帝国大学文学部仏文科に入学。太宰施門、生島遼一との親交を深める。(中略)28年京都帝国大学卒業。(中略)大阪朝日新聞社に入社する。「週刊朝日」の編集を手はじめに、社会部、学藝部などの第一線記者として活躍。戦後は、京都支局長、パリ特派員を勤めたのち、本社にもどって論説委員となり、かつて父平造が担当した「天声人語」に健筆をふるう。また、親友生島が桑原とともにスタンダールの『赤と黒』の翻訳にとりかかっていたことに刺激をうけ、自身もデュマ・フィスの『椿姫』の翻訳にとりかかり、34年8月、岩波書店より出版する。(中略)1959年朝日新聞社を定年退職、高山京都市長に請われて助役に就任。(中略)63年8月退任。引き続き奈良県教育委員に推され、68年には教育委員長を勤めたほか、(中略)多数の団体の委員を勤めた。(中略)東大寺大仏殿の昭和大修理では74年から財団法人大仏奉賛会副理事長として尽力した。76年帝塚山学園学園長に就任。(中略)77年癌性腹膜炎のため死去。死後、発表する意志のなかった日記は、遺稿集『「待秋日記』(78年11月、朝日新聞社)として出版された。(中略)著書に『日常の論理』(42年4月、筑摩書房)、『文学と良識』(49年3月、高桐書院)、『晴歩雨眠』(72年6月、朝日新聞社)など。(後略)(中谷克己)」とあります。 参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.391-393, 参考資料: 2 滋賀県人物・人材情報リスト 2011 日外アソシエーツ∥編集 日外アソシエーツ 2011年 LB-2800-11,

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