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野田理一の読み方とその略歴を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「のだ・りいち」で、略歴は「1907・11・10~1987・2・22。詩人、美術評論家。蒲生郡岡山村(現近江八幡市)南津田生まれ。旧姓井ノ口。幼少時に日野町大字日田の野田家(醸造業「十一屋」の分家)の養子となる。(中略)日野小学校、膳所中学校を経て、1931年関西学院高等学部(現関西学院大学)英文科卒業。在学中から新劇に熱中し東京の築地劇場にも出かけた。またT・S・エリオットに傾倒して詩作を始め、寿岳文章に師事してダンテに親しむ。昭和初年代は津市に在住し本家の出店に勤務。東西藝術を広く収集し、当地の画家浅野弥衛を抽象美術の道へと導いた。戦前に結婚したが離別、以後は独居生活を送る。第1詩集『願はくは』(35年7月、向日庵私版本)は寿岳文章が私費で発行したもので、虚無と憧憬の混交した精神風景をエリオット調のモダニズムで表現、すでに高い完成度を示す。(中略)戦時中は胸部疾患のため兵役につかず詩作を続ける。戦後の52年には鮎川信夫に招じられ「荒地」同人となり『荒地詩集』1952~1958(52年6月~58年12月、荒地出版社)に「政治的他殺」「誘発』など前衛的な詩編を発表。(中略)ほかに「詩学」「季節」等にも寄稿したが、同人活動はせず、書肆季節社の政田岑生や詩人の清水信などとは親しく交流したものの中央詩壇や県内の近江詩人会に近づくことはほとんどなかった。(中略)野田は藝術に対する鑑識眼が鋭く、博覧強記で西洋の現代美術や音楽、演劇全般、骨董、造本などに広く通じた。80年には京都で詩画店を開催し、卓抜な美術論も多い。(中略)晩年まで時代に迎合することなく、郷里の風土性にも染まることがなかった野田だが、60年頃から日野の演劇サークルの指導を行うなど、地元の文化活動には助力していた。美術品の売買のため京阪に出かけるほかは日野に隠棲したまま審美的な生活を送った。(後略)(外村彰)」とあります。 参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.268-270, 参考資料: 2 詩歌人名事典 日外アソシエーツ株式会社∥編 日外アソシエーツ 2002年 R-9110-ニ, 参考資料: 3 滋賀県人物・人材情報リスト 2011 日外アソシエーツ∥編集 日外アソシエーツ 2011年 LB-2800-11, 参考資料: 4 人物レファレンス事典 文芸篇 日外アソシエーツ株式会社∥編 日外アソシエーツ 2010年 R-9103-ニ,

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