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松尾芭蕉が立机する前の、江戸での生活について書かれたものを見たい。 苦しい生活をしていた、上水道に関わった等の話があるとのこと。 ※「立机」とは俳句の宗匠になること。

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松尾芭蕉の江戸での生活や神田上水に関わったとの記述のある資料として次の資料を紹介した。 松尾芭蕉の伝記 『松尾芭蕉』(人物叢書71)(阿部喜三男著 吉川弘文館 1964)  p35-49「江戸に下って」の節のうち、〈寛文12年〉から〈立机と剃髪〉の項に、江戸における生活に関する記述あり。特に「水道関係など」の項では、「また、この間には医業にたずさわって素宣(そせん)と号したとか、幽山の執筆(しゅひつ)を勤めたとか、卜尺の帳役の手つだいをしたとか、水道工事に関係したとかの諸説が伝えられている。」と記載あり。  p236-237「略年譜」に、関連の記述あり。 『芭蕉=二つの顔 俗人と俳聖と』(田中善信著 講談社 1998)  p89-116「日本橋在住時代」の章あり。  「日本橋の名主のもとで」の項(p90-91)に、喜多村信節の「筠庭雑録(いんていざつろく)」から「桃青(芭蕉)江戸に来りて、本船町の名主小沢太郎兵衛得入がもとに居れり。日記など書かせたるが多く有りしとなり。」との記述を紹介し、江戸での生活について触れている。 また、「杉風の書留?」の項に、「安永から天明にかけて活躍した俳人に梅人という人物がいる。(中略)この梅人が書き残した「桃青伝」に「採茶庵杉風書留」という資料が紹介されている。このなかに芭蕉は伊賀から江戸へ来た際、杉風の家に落ち着き、その後医者となり素宣と名乗ったと記されている。」とあり。ただし著者は「これは杉風の名を利用した偽書であろう。」としている。  p99-「神田上水の委託工事」の節に、「嘗て世に功を遺さんがため、武の小石川の水道を修め、四年にして成る。」との『本朝文選』(許六編)の「作者列伝」の記述の紹介あり。これに対し、「この「列伝」の記事はあまりに簡略すぎて、芭蕉の仕事の内容は何もわからないが、彼が神田上水にかかわる何らかの仕事をしていた、ということだけはわかる。」としている。 『芭蕉転生の軌跡 近世文学研究叢書 4』(田中善信著 若草書房 1996)  p170-199「芭蕉と 水道工事」の章あり。喜多村信節『筠庭雑録』の延宝8年に出された町触の記事と『本朝文選』(上記参照)の記述から「延宝年間芭蕉は水道工事に携わっていたという定説が出来た。」とあり。 『日本を創った人びと 18 松尾芭蕉』(日本文化の会編集 平凡社 1978)  p16-「水道工事に携わったと伝えられるのは、水道支配の町年寄喜多村家の配領地長浜町の名主を勤める卜尺が、芭蕉の生活の資を補うために周旋して、神田上水水役の閑職につけたことをいったものだろう。」とあり。 『総合芭蕉事典』(尾形仂〔ほか〕編 雄山閣出版 1982)  p3-〈伝記〉の項に「長浜町の名主小沢太郎兵衛(俳名卜尺)所有の小田原町(中央区日本橋室町一丁目)の貸家に住居を定めたが、生計は不如意だったらしく、同五年から八年までの四年間、卜尺の斡旋で小石川上水工事の事務職を副業にするなど、生活苦を体験する一方、」とあり。 神田上水に関する資料 『日本の上水』(堀越正雄著 新人物往来社 1995)  p73-78「松尾芭蕉と神田上水工事」の節あり。「松尾芭蕉が神田上水の工事に関係があったことは、色々な文献から明らかなことである。しかし芭蕉が関口の水道工事で、いつごろから、どんな仕事をしたのか、またどれほど勤めていたかというようなことになると、どうもあまり詳しいことは分からない。」とあり。また、『本朝文選』(許六編)の「作者列伝」や『筠庭雑録』の記述を紹介している。 人物に関する事典類 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社 1994)  p1565-1566「延宝初年、30歳代のはじめには江戸に出て上水道工事に携わったりするが」という記述あり。 未所蔵資料 「神田上水工事と松尾芭蕉」(大松騏一著 松本市壽監修 神田川芭蕉の会 2003)

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