『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「瀬田城はかつて瀬田川にかかる瀬田唐橋の東南畔に位置し、東海道を監視する重要な地を占めていた。この城は土豪山岡氏の一族の山岡資宏(すけひろ)が永享年間(1429~41)にはじめて築城したという。代々山岡氏が瀬田城主となったが、とくに1568年(永禄11)以降、山岡景隆(かげたか)が織田信長につかえて瀬田城をまもった。景隆を有名にしたのは、本能寺の変後、瀬田橋を焼き落し、明智光秀の勧誘を聞き入れなかったことであった。しかし、その翌年賤ケ岳合戦で柴田勝家に内通したことが発覚し、豊臣秀吉によって瀬田城をおわれ、あとは浅野長吉にあたえられた。城跡は「臨江庵(りんこうあん)」とよばれる膳所城主本多氏の別邸になったとつたえられている。1965年(昭和40)山岡同族会によって瀬田城跡碑が建立された。(木村至宏)」とあります。なお、所在地は大津市瀬田二丁目です。
参考資料: 1 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.441,
参考資料:
2 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.296,
参考資料:
3 大津の城 大津市史編さん室∥編 大津市 1985年 S-5211- 85,
参考資料:
4 近江城郭探訪 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県文化財保護協会 2006年 S-2900- 06,
参考資料:
5 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3,
参考資料:
6 近江輿地志略 全 寒川辰清∥著 宇野健一∥改訂校註 弘文堂書店 1976年 S-2900-734,
参考資料:
7 近江栗太郡志 巻3 栗太郡役所∥編 栗太郡役所 1926年 5-2120-3,
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