『日本城郭大系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡甲賀町鳥居野字八幡山」、創築年代は「慶長年間(一五九六-一六一五)」、創建者は「大原篠山理兵衛景春」、型式は「平城」です。城の歴史は「(前略)長方形の郭をもち、土塁の高さは、東西南面約三m、北面約六m、堀は西面堀は完存しており、さらに平坦地を経て、二重の堀が残っている。北面は築上土塁と、地山整形土塁のすそに二つに別れた堀がある。南正面堀については、現在埋まっている。また東面堀については、道路となっているが、堀が存在していたと考えるのが一般的である。郭への入口は南側であるが、土塁が一部崩壊しているため、城門の様子は不明である。北面土塁は、郭内に二重土塁があり、内側は、低い土塁である。この二重土塁の間は凸凹のはげしい遺構であるため庭園ではないかと思われる。郭から西側に平地があり、一部に堀が認められる。さらに、城の周辺には、方形プランの小道があり、これらには、篠山氏の家臣の家や、城郭の一部施設があったようである。城主である篠山氏は大原氏の一族で、正式には大原篠山氏で、当時の甲賀地方は、同名中(一族名)と個人の複数の姓をもっている。したがって、対外資料には大原氏の名で、地方資料には篠山氏として現われる。『改正三河後風土記』によれば、慶長五年六月、徳川家康は会津の上杉景勝を討つため伏見より東下して、石部で宿泊をしていた。水口岡山城主長束正家がそこへ参上して、岡山城への招待を申し出たが、篠山城主篠山備中守理兵衛景春は、その招待が豊臣方の策謀であると家康に告げ、夜中に家康を鈴鹿峠まで送った。家康と大原氏の関係は、大原氏は旧姓富永・設楽氏で、三河武士であることと、永禄三年(一五六〇)の桶狭間合戦での家康の陣であった大樹寺(岡崎市)の登誉上人の弟子に大原景顕の弟祖道がいたため、甲賀の大原一族も参軍したのである。(中略)また、慶長五年八月一日、鳥居元忠の麾下に属して伏見城を守る。(中略)伏見籠城の篠山氏戦死者は、篠山理兵衛景春・彦十郎景尚従臣十人。(中略)篠山城は、理兵衛の戦死で廃城となるが、徳川幕政下では再び篠山氏は同地で陣屋を構え代官となる」とあります。なお、甲賀郡甲賀町鳥居野字八幡山は現在甲賀市甲賀町鳥居野になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.279-280,
参考資料:
2 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-2,
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