『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡甲賀町滝」、別称は「梅垣城・青木城」、創築年代は「弘安七年(一二八四)」、創建者は「多喜彦太郎家継」、形式は「平山城」。城の歴史は「多喜城には、梅垣城・多喜南城・多喜北城・青木城の四城があり、多喜北城が戦国時代の本城とみられる。北城は、大字滝の南方山腹にあり、東側土塁と南北半壊土塁がП形に残っている。土塁の高さは約五mで、郭の東方の平坦地は現在墓所となり、南側に入口がある。この城内への通路は土でたたき上げたもので築城の基と考えられる。また、西方尾根端にも、平坦地が残る。北城から南へ五〇〇m行くと南城、また西へ三〇〇mいくと梅垣城がある。梅垣城には土塁・井戸・五輪塔が現存している。多喜氏は、伴四党(大原・上野・伴・多喜)と、鎌倉―室町時代に甲賀東部に勢力をもった大伴姓富永一族であり、伴家継(多喜彦太郎)が祖とされる。多喜(滝)勘八俊兼は、長享の乱(一四八七)で武勇をあげ、また勘八の叔父である由旭は油日神社(甲賀町大字油日、国指定重要文化財)の再建運動の指揮を取り、本殿蛙股に自分の花押を彫り込んでいる。多喜氏の一族に、山岡道阿弥(山岡城参照)、中村一氏(水口岡山城参照)などの大名がいる。(後略)」とあります。なお、甲賀郡甲賀町滝は現在甲賀市甲賀町滝に、甲賀町大字油日も甲賀市甲賀町油日になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.281,
参考資料:
2 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-2,
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