『日本城郭大系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡甲賀町櫟野字五反田」、別称は「五反田城」、創築年代は「室町時代」、型式は「平山城」です。城の歴史は「(前略)城跡の南方部には二か所の小さな平坦地があり、ここに城門があったと推定され、左右対称の櫓をもつ城門と考えられるが、西側櫓跡は採土のため半壊している。城門へ登る急な通路は三曲して城内に入っている。城内は、東側・西側に土塁が築かれている。東側土塁は、南北端いっぱいに築かれ、中央に凹みがあり、現在は「山の神」が祭祀されている。この凹みは築城時から存在していたと考えられ、物見台として利用されていたのであろう。さらに土塁外側は急斜面であり、地山を整備したものである。(中略)西側土塁は、東側土塁より高く築かれ、外側には、地山と城跡とを孤立させて、凹部を空堀としている。北面には、土塁の存在は認められない。(中略)また、外側面に約六m下る所に二か所の平坦地が存在する。これら二つの土塁と、二つの崖で囲まれた中央の平坦部が城郭の中心で、その面積は約一五〇〇㎡である。(中略)北部の山続きの丘陵部にも、平坦地があることから、この城跡の範囲に含まれ、さらに山麓の田地にも付属施設があったのであろう。そして、櫟野川をはさんで、櫟野寺の西にも出城が残っている。この城主と伝えられている滝川一益は、十六歳まで大原庄(甲賀町旧大原村)に住し、信長の四天王、関東管領となるが、甲賀武士団とくに滝川一益の出身大原氏の関係は、元亀元年(一五七〇)、甲賀武士団と織田信長の対戦までは、一族出身武将として同朋あつかいであった。『大原勝井文書』に、大原滝川一益の名で大原同名中に宛てた書状があり、大原一族に加わっていたことがわかる。また、「大原氏系図」でも、滝川氏が櫟野大原氏の流れをくむものであることがわかるが、一益の名はない。しかし、滝川左近将甲賀反逆の時という事件を書き入れているから、系図から一族としては除名され、反逆という言葉であらわしたものとも考えられる。(後略)」とあります。なお、甲賀郡甲賀町櫟野字五反田は現在甲賀市甲賀町五反田になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.282,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 2 甲賀の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1984年 5B-5200-2,
参考資料:
3 近江城郭探訪 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県文化財保護協会 2006年 S-2900- 06,
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