『新修豊中市史 第1巻 通史1』などに椋橋城についての記載があり。
回答プロセス:城郭(521)関連の書架、郷土資料の書架などを探し、下記の資料をご案内した。
『日本城郭大系 12 大阪・兵庫』(新人物往来社)p90「椋橋城」には、椋橋城が史上に現れるのは応仁・文明の頃(1470年前後)、ついで天文3年(1534)の細川晴元と三好利長(のちの長慶)の不和の際に利長が一向宗徒とともに立てこもった等の記載があり。15世紀・16世紀の摂津の歴史を語る上では重要な城郭であるが、現在では庄本(しょうもと)の椋橋神社付近にあったということしかわからない、とのこと。なお椋橋付近は神崎川・猪名川の河口付近の要衝の地で、政治的・経済的に重要であったことから、ここに城砦設備が築かれた時期はもっと遡れるであろうとも記載があり。
『日本歴史地名大系28 大阪府の地名1』(平凡社)p281「椋橋城跡」には、庄本町1丁目の椋橋総社(くらはしそうじゃ)付近にあったと伝えるが市街化のため痕跡が残っていないこと、所在比定地は神崎川・猪名川の合流点に近く、淀川の舟運と尼崎・杭瀬(くいせ)などの良港を抑える目的で築かれたであろうこと、応仁2年(1468)の西軍大内氏と細川勝元の被官であった夜久主計允との攻防などについて記載があり。
『新修豊中市史 第1巻 通史1』(豊中市)p406-408「豊中市域の中世城郭 椋橋城」には上記の合戦等の出典となる文書名なども記載があり。また前後には応仁の乱など15世紀・16世紀の合戦と豊中市域との関わりについて詳しい。
市のサイトの「豊中の歴史と歩み(市の歴史)」では、「兵火に巻きこまれる戦国時代」に関連の記載があり。https://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/shoukai/history/history.html
参考資料:『日本城郭大系 12』(新人物往来社),
参考資料:『日本歴史地名大系28‐[1]』(平凡社),
参考資料:『新修豊中市史 第1巻』豊中市史編さん委員会/編集(豊中市),
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