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近江にあった音羽(おとわ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「蒲生郡日野町音羽」。別称は「日野城・智甘城」、創築年代は「応仁・文明年間(一四六七-八七)」、創建者は「蒲生貞秀」、形式は「山城」です。城の歴史は「日野川の南岸台地上に立地し、北は日野川、東・西は谷で区切り、南は搦手として間道伝いに鎌掛や土山町鮎河方面と結んでいる。(中略)蒲生氏は藤原氏の出とされてはいるものの、その出自の詳細は不明である。しかし、元久二年(一二〇五)、同氏の支流である儀俄氏が日野牧内での争いに、北条時政の裁許を得ていることから、その宗家である蒲生氏は、すでに付近一帯に大きな力を持っていたとされている。(中略)この音羽城における戦いで、文献上明らかにされているものは、三回あった。(中略)三回の戦いとは美濃の斎藤利国が京極氏と共に六角高頼を攻め、日野中野に至った明応五年の戦いと、二回目は六角高頼の重臣伊庭貞隆が主に背き乱を興したとき、高頼は音羽城に逃げ、これを伊庭貞隆が攻めた文亀二年(一五〇二)の戦いである。三回目の戦いは結果的には当城を壊滅に導き、以後、蒲生氏の本城は中野城となるのである。この戦いは同族内での宗家継承の戦いで貞秀の孫秀紀と叔父高郷の争いであり、高郷を援けた佐々木定頼も二万の兵を音羽城に向けている。そして籠城三年の末、大永三年(一五二三)、城主秀紀は降服し、定頼の裁下で高郷と和議を結んで音羽城は壊された。そして、その後身として秀紀は鎌掛城を築くに至ったのである。」とあります。なお、土山町鮎河は現在甲賀市土山町鮎河になっています。 参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.261, 参考資料: 2 近江の山城ベスト50を歩く 中井均∥編 サンライズ出版 2006年 S-2900- 06, 参考資料: 3 滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県教育委員会 1986年 5B-5200-4, 参考資料: 4 近江蒲生郡志 巻8 蒲生郡役所∥編集 蒲生郡役所 1922年 S-2140-8, 参考資料: 5 滋賀縣史蹟・名勝・天然記念物調査報告概要 滋賀縣保勝會∥編 滋賀縣保勝會 1922年 5-2900- 22,

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