『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「蒲生郡日野町西大路」、別称は「日野城」、創築年代は「大永年間(一五二一-二八)、創建者は「蒲生定秀」、形式は「平城」です。城の歴史は「(前略)城は先の音羽城に替わり蒲生定秀が築いたもので、天文二年(一五三三)に、東西七十九町にもおよぶ町割を定め城下町とした。これが今日の日野町の中心街である。『仁正寺由緒記』によると、城内は縦八町、横六町の規模を持ち、大手口と御屋形は石垣で囲い塀や櫓を構え、総堀は広さ五間、深さ一丈、土塁は幅五間、高さ一丈もあって、延(のべ)八〇万人もの人手を要したと記されており、これに要する費用として一人一日一升の米を与え、家中のものは二年間その知行を半分にしたと書かれている。このようにして築かれた城も、定秀の子賢秀の時の永禄十一年(一五六八)信長による観音寺城攻めに際して、賢秀は当城に籠城していたが、伊勢神戸の城主神戸友盛の仲介で信長に降服して人質を出した。この人質が後の秀郷である。こののち、賢秀は信長軍の中で多くの戦功をたて、本能寺の変のおりは安土城二の丸の留守を預かっていた。悲報を知った賢秀は、秀郷とはかって、信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘にも応じなかった。その後秀郷は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正十二年(一五八四)には伊勢松坂十二万石の領主になり、父祖伝来の地を離れることとなったのである。蒲生氏亡きあとの中野城には田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長八年(一六〇三)にはついに廃城となってしまった。幕府は元和六年(一六二〇)に、新たにこのさびれた中野城に越後三条城より市橋長政を封じて、当地と河内とを合わせて二万石を与えた。そして中野城の跡に陣屋を構え諸士の屋敷を造って、地名も仁正寺に改変されて幕末に至ったのである。」とあります。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.269,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県教育委員会 1986年 5B-5200-4,
参考資料:
3 近江蒲生郡志 巻8 蒲生郡役所∥編集 蒲生郡役所 1922年 S-2140-8,
参考資料:
4 近江名跡案内記 北川舜治∥著 北川舜治 1891年 S-2900-891,
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