『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「守山市木浜町」、創築年代は「室町時代後期」、創建者は「進藤山城守長久」です。城の歴史は「(前略)『近江名跡案内記』によると、進藤山城守の居城とされ、永禄八年(一五六五)に城は焼失したとあり、さらに元亀三年(一五七二)、大原賢永の家臣が当城を焼こうとして発見され、野洲川で焼殺されたと伝えられている。城主の進藤氏については古い史料はないが、六角氏の将で後藤氏と共に肩を並べ、佐々木の両藤と呼ばれており、『経厚法師記』に進藤山城守長久の名があると『近江蒲生郡志』に書かれている。長久の子貞治は佐々木定頼に仕えて重用され、大永三年(一五二三)、定頼の命を高島郡河上庄公文職に伝えている。また、天文十五年(一五四六)、定頼が管領代として、坂本日吉の祠官樹下邸で足利義輝の加冠をしたとき、樹下邸修築奉行を命じられ、同十七年には寄分に任用された。」とあります。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.271,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3,
参考資料:
3 近江名跡案内記 北川舜治∥著 北川舜治 1891年 S-2900-891,
↧