『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「守山市立入町」、創建者は「立入秀興」、形式は「館」です。城の歴史は「(前略)『近江名跡案内記』は、「立入因幡守清直の居城で六角氏に仕えた」としているが、詳細は不明である。また『四目録』には、元亀元年(一五七〇)に、当城を六角承禎に使わせたと記されているところから、一時期佐々木氏領となったようである。秀興の子宗康が佐々木高頼に従い京都の六角邸に仕えていたころの明応九年(一五〇〇)、後土御門天皇が崩御した。しかし、このとき財政的な理由から大葬の準備ができず、久しく出棺できなかったことを知り、高頼を通じて御料を奉献したことから御倉職となり、その後も不足がちな御料を自家の米・金銀で補っていたといわれている。宗康の孫の宗継は姻戚関係から織田信長に通じ、永禄五年(一五六二)から同十年にかけて奔走して、信長上洛の綸旨奉書を朝廷より出させたことは、その後の天下統一への陰の大きな力となっている。」とあります。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.271,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3,
参考資料:
3 近江名跡案内記 北川舜治∥著 北川舜治 1891年 S-2900-891,
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