阪急電車関連資料、また当時発見された東奈良遺跡関連資料にいくつかの言及があった。
1.『阪急電車駅めぐり 京都線の巻 空から見た街と駅』(阪急電鉄/編、1981刊)
【引用】
「(前略)
南茨木駅は恒久的に使用するため建設され、約5千平方メートルの駅前広場もつくられ、これより後、地域の発展に大きな影響を与えることになった。南茨木の三沢地区には、阪急では初めての高層住宅を分譲した
(中略)
昭和44年から建設を始めた三沢地区の高層住宅は11階建、一戸当たりの規模は概ね3DKで、昭和47年までに合計7棟720戸の高層住宅を分譲した。南茨木周辺には、このあと、駅前地区、浜地区、東奈良地区と次々に住宅を建設し、三沢地区も含めて“南茨木ハイタウン”と名付け、利便施設の充実にも力を入れた。
(後略)」
2.『阪急ステーション 写真で見る阪急全駅の今・昔』(阪急電鉄株式会社コミュニケーション事業部、2001刊)
記述は少ないが、「1970年開通直後の南茨木駅」と「1971年の南茨木駅」の写真あり。
3.『急線歴史散歩 史跡をたずねて各駅停車』(野添梨麻/著、1987刊)
資料1とほぼ同内容の記述ののち、「南茨木ハイタウン」の宅地造成の際に東奈良遺跡が発見された、との記述あり。
4.『東奈良遺跡発掘調査概要』(大阪府教育委員会、1976刊)
【引用】
「東奈良遺跡は、茨木市東奈良・沢良宜町に所在し、阪急電鉄京都線と中央環状線の交差するところにある阪急南茨木駅を中心に所在する遺跡である。
このあたりは、昭和20年以前には水田にも利用されないような湿地が多かったのであるが、昭和20年以降に水田化されていったところであり、4・5年前までは住宅開発からも取り残されていたところである。しかし、昭和45年の万国博に先立って、新しく駅が造られ、中央環状線が通っていることもあり、急速に開発が進みつつある。(後略)」
5.『日本の遺跡発掘物語 4 弥生時代 2』(社会思想社、1984刊)
【引用】
「1970(昭和45)年春、大阪、千里丘陵で日本万国博覧会が開幕した。
世界77カ国が展示を競い、国や自治体は海外からの観光客を受け入れるために交通網を一層整備した。万博が引き金となって、千里丘陵の東、淀川北岸の三島平野は新たな住宅地域、工場進出地として注目された。阪急電鉄も同年3月、茨木市内で阪急京都線と近畿自動車道(原文ママ)が交差する付近に南茨木駅を新設、大規模なマンション群を中心とするターミナル周辺の開発に乗り出していた。かつて三島平野に広がっていた田園風景が、マンション、工場が立ち並ぶ市街地へ変貌する前夜でもあった。(後略)」
万博関連資料や茨木市作成の行政資料などからは、万博当時の南茨木駅周辺の開発についての情報は見つからず。
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