ご照会ありました件について、下記のとおり回答します。
資料①のP46~50には、粕谷藤次郎は店の名で、当主13代の本名は幸次郎であること、初代藤次郎の没年が寛保元年(1741)とのことだから、かりにそれから30年溯ったころが創業の時期とすれば、創業したのが正徳元年(1711年)あたりになるということが記載されています。
また、この13代粕谷藤次郎について、資料①の著者で山形の農民詩人でもあり思想家でもある真壁仁は、次のように記しています。
「ここにもまだ、ごまかしのきかない真正の職人の気質をもった鍛冶師がいる」
「幸次郎(本名)が父の技を継いで自分で完成したのは、実は屋根鋏である」
「幸次郎さんは、玉はがねと刃物鋼を接ぎあわせる鍛接の作業にいちばん心をくだくという。加熱する温度によって鋼の粒子の粗密が別れる。鋼を生かすか、殺すかが、このとき決まってしまう」
資料②のP76には、山形鍛冶町の打刃物師のうち、創業以来13代続いている鍛冶職人は1軒のみであることが記されています。
資料③のP425に、粕谷幸次郎氏が平成3年春の褒章で黄綬褒章を受章したことが掲載されています。
資料④の受章を報じた山形新聞(平成3年4月28日朝刊)には、「打刃物に情熱 粕谷幸次郎さん(67) 280年間にわたる製作所を継いで、打刃物業に53年間従事。現在は主に植木ばさみの製作を行う。伝統工芸品として高い評価を受ける」との記事がありました。
また、受章した時のご本人談が掲載されている新聞として、次のものがありました。
資料⑤毎日新聞山形版(平成3年4月28日朝刊)
「一人前になったと思えたのは、父が亡くなった35歳の時で、20年はかかった」、「思い通り仕上がった時は手放すのが惜しくなる。でも百丁に一丁ぐらいしかできない」
資料⑥読売新聞山形版(平成3年4月28日朝刊)
「好きじゃないと続けられない仕事だ」、「気分や火の具合で、はさみの刃があわないことがある。幾つになっても父の域には及ばない。まだまだこれから」
なお、山形の打刃物については、ご参考まで、山形県のホームページの「山形セレクション」から「打刃物」をご覧ください。
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