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 江戸時代(幕末期)に江戸に蘭学を学びに行った県人(特に庄内出身者)の手がかりになるような資料はありますか?

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 ご照会ありました件について、下記のとおり回答します。  資料①のP952~953に、幕末期の江戸・長崎・大坂で蘭学を学んだ県人62名(うち庄内出身者18名)について、当時の代表的な蘭学者(杉田玄白、大槻玄沢など12名)の「門人帳」ごとに氏名、出身地が掲載されています。  その県人62名のうち、江戸で学んだ庄内出身者は13名で、伊東玄朴門下が8名(松島元斎、武田休達、進藤泉、進藤道一、菅原深斎、大滝泉斎、栗本節安、栗本道意)、松本良順門下が3名(菅野遠斎、江田松益、榊原玄辰)、大槻玄沢門下が1名(小野意仙)、勝海舟門下が1名(佐藤政養)となっています。  また、資料①のP953~956には、庄内出身者で業績をあげた代表的人物として、佐藤政養、山口行斎、小関三英の3名を挙げており、その足跡がおおよそ次のとおり記載されています。  ・佐藤政養(文政4~明治10、1821~1877)     升川村(現遊佐町)出身。通称与之助。江戸に出て勝海舟の門に入り、西洋砲術・測量学を学び長崎海軍伝習所でオランダ人から軍艦操練を学ぶ。   明治3年、新橋ー横浜間の鉄道建設に従事、英人技師E・モレルに協力して各駅の調査・測量など工事の直接責任者として尽力、細密な記録を残し、同 5 年鉄道助に任じられる。  ・山口行斎(天明5~天保3、1785~1832)     文化2、3年の頃、蘭方医学を究めようと長崎へ赴き、辛苦の末、文化8年長崎入りを果たす。長崎では、錚々たる蘭学者について5年間蘭方外科を学ぶ。   文政2年(1819)、庄内に帰る途中、馬関(下関)で開業、門人100余人をかかえるようになる。文政9年、シーボルトと会い、西洋医学の新しい知識や技術を伝授される。  ・小関三英(天明7~天保10、1787~1839)     文化元年(1804)、江戸に出て吉田長淑の門に入り、高野長英と親交を結び、天文台翻訳係・長崎通詞馬場佐十郎について蘭学を学んだ。   文政6年(1823)、長崎に赴きシーボルトに師事した。文政8年から数年間、岸和田藩医となり、その間、コンスプルックの内科書を翻訳。天保4年幕府の 天文方翻訳係として出仕。この頃、鈴木春山・高野長英・渡辺崋山らと蘭学研究グループ尚歯会を結成、天保10年(1839)蛮社の獄に連座し、自害。   また、資料②のP15~18にも、資料①に掲載の蘭学者12名のうち6名の蘭学者とその門人の氏名と出身地が記載されていますが、ここには、門人ごとに塾への入門年が記載されており、これによると庄内出身者の入門年は、伊東玄朴門下8名は、嘉永7年(1854)~慶応3年(1867)の間の入門、松本良順門下3名は、万延元年(1860)~文久2年(1862)又は文久3年(1863)の間の入門、大槻玄沢門下の1名は寛政9年(1797)に入門していることが記載されています。  資料③には、資料①に記載のあった人物を中心に、庄内出身者として、岩田松碩、近藤良儀、小野意仙、栗本節安、栗本道意、菅原深斎、進藤悠哉、山口行斎、小関三英、佐藤政養、小関高彦の11名についての記述があります。 その略歴を記すと次のとおりです。   岩田松碩、近藤良儀   寛政年間の「洋学者芝居見立番附」、「洋学者相撲見立番附」に出ているが、経歴不明。    小野意仙  経歴不明。    栗本節安  明治維新後、鶴岡大山で開業。    栗本道意  節安の弟。明治17年、東京大学医学部卒業、長崎病院内科部長。    菅原深斎  明治5年、鶴岡に医学校創立。    進藤悠哉  経歴不明。    山口行斎、小関三英、佐藤政養  上記のとおり    小関高彦  小関三英の養子。カラーメルの合衆国小話(安政二)、山砲略説(安政三)などを訳する。    庄内出身者で上記以外の人物として、資料④には本間郡兵衛(フルベッキに入門、欧州・ロシア・中国・アメリカ歴訪、商社を構想)、 資料⑤には真嶋雄之助(勝海舟の門人、砲術を修める)、佐藤泰然(順天堂病院の創始者、父親が遊佐出身)、資料6には高木三郎(明治期、生糸輸出に活躍)が掲載されています。

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