ご照会ありました件について、下記のとおり回答します。
資料①のP28~31に、「大熊信行先生の家系」(我妻圭介著)と題する論文の掲載があり、そのなかに、「大熊家の祖先は、直江兼続の家臣団与板組の妥配頭であった。・・・越後の与板から会津、米沢と移ってきたのが大熊家である。・・・大熊家の寺は、米沢に移ってから北寺町の曹洞宗の転輪寺であったが、宝暦年間、同宗の東源寺に変った」とする記述があります。
資料②のP12にも、「昭和52年 1977年 84歳 6月20日、劇症肝炎のため、米沢市三友堂病院において永眠。墓地は米沢市東源寺」との記載がありました。
資料③山形新聞(昭和54年6月21日付け朝刊)には、「経済学の大熊信行氏が死去」とする記事が掲載されており、そのなかで喪主はおいの長谷川浩司氏、葬儀は米沢市相生町の法徳寺でとりおこなわれる旨の記載がされていました。
大熊信行(資料④および資料⑤抜粋)
歌人・評論家・経済学者。明治26年米沢市元籠町生まれる。大正10年東京商大専攻部を卒え、小樽、高岡の高商教授、さらに富山大、神奈川大学、創価大学教授を歴任した。大学にあっては、福田徳三の指導をうけ、配分理論を中心に経済学の研究に従った。小樽高商にあっては、小林多喜二、伊藤整を教え、『社会思想家としてのラスキンとモリス』(昭2)を残して、昭和4年、文部省留学生として渡欧。経済学者としては、「マルクスのロビンソン物語」を経て、主著『経済本質論ー配分と均衡』(昭12)に結実した。学位論文は「経済本質論-配分原理第1巻-」、副論文が「政治経済学の問題」(昭16)
歌人としては、米沢から歌誌「まるめら」(昭2・1~17・2、通巻174号)を創刊、『無産派口語歌運動への一瞥』(4号)を発表、大塚金之助とともに、プロレタリア短歌運動に先駆的役割をつとめた。戦後は山形県地方労働委員会初代会長に就任し三期をつとめる。戦時中の自己批判を行ったのち、広汎な社会評論家として活動した。『結婚論と主婦論』(昭32)『家庭論』(昭38)から『戦争責任論』(昭23)『国家悪』(昭32)などの諸問題を論じ、賛否の注目をあつめた。昭和52年84歳で死去。
なお、山形県立図書館では、特に明治期以降、全国を活動の舞台として活躍された山形県出身者の方々22名について、その関係資料を常設展示していますが、大熊信行もそのなかの1人です。大熊の色紙や原稿などが展示されています。
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