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長浜みーな協会発行の地域情報誌「みーな びわ湖から」93号(平成18年12月)に「余呉湖畔の蛇の目玉石」の写真が掲載されていて、「人身御供となり、蛇に姿を変えた菊石姫が投げた目玉が当たったと伝わる。目玉は疫病から人びとを救ったという(余呉町)。」との解説があった。そこで、この伝説(民話)の内容について、もう少し詳しく知りたい。また、他にもこの伝説(民話)を収録している資料があれば知りたい。(滋賀県立図書館)

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『湖北昔話』によりますと、「余呉湖の目玉石 (中略) 昔、余呉湖畔の村々では毎年のようにかんばつが続き、人々は困り果てていました。そのころ余呉湖畔に菊石姫というやさしい女の子が住んでいました。姫は村人たちの苦しみを見かね、自ら人身御供となって雨を降らそうと決意しました。余呉湖のほとりにくると、一心に何かを祈り余呉湖に身を投じました。するとどうでしょう、姫の体はたちまち蛇(じゃ)の姿になり、黒雲が現れてあたりいちめん大雨が降り始めました。田畑の作物も息を吹き返し、人々はやっと助かりました。蛇となった姫は、長年育ててくれた乳母へのお礼として、病気の薬にと片方の目玉をぬきとり、湖から陸へほうり投げました、目玉は大きな石の上へ落ちたので、石に丸いあとがつきました。これが今も余呉湖畔に残る「蛇(じゃ)の目玉石」です。それ以来余呉湖畔の人々は菊石姫を湖神とあがめ、かんばつの時には姫に雨乞いをすると不思議に雨が降り、水不足で困ることがなくなったということです。」とあります。また、菊石姫については、『天女伝説のふる里』のなかに収録されている「桐畠太夫縁起」(桐畑家蔵)の現代語訳によりますと、「故にか都の御所の落人がこの所に留まり、湖水より二町余り西の桐畑池の口という所に家屋敷を構え居住していて、名を桐畑太夫と号した。(中略)その後弘仁二年(811)の春の終わりに、太夫が最愛の一人の女の子がうまれた。これを名づけて菊石姫といった。」とあります。このほか、『余呉の民話』、『余呉の伝説』、『読みがたり滋賀のむかし話』、『近江伊香郡志』下巻の「境内社 新羅崎神社」の部分にも収録されています。ただし、菊石姫は誕生時から蛇身であったなど、話の筋が若干異なるものもあります。 参考資料: 1 湖北昔話 滋賀県長浜保健所∥[編集] 滋賀県 1993年 SP-3800- 93 p.13, 参考資料: 2 天女伝説のふる里 余呉町史編纂室∥編集 余呉町 1997年 S-3873- 97 p.34-50, 参考資料: 3 余呉の民話 余呉町教育委員会∥編集 余呉町教育委員会 1980年 S-3873- 80 p.82-86, 参考資料: 4 余呉の伝説 余呉町立鏡岡中学校郷土クラブ∥編集 余呉町立鏡岡中学校 1971年 5-3873- 71 p.22, 参考資料: 5 読みがたり滋賀のむかし話 滋賀県小学校教育研究会国語部会∥編 日本標準 2004年 S-3800- 04 p.118-121, 参考資料: 6 近江伊香郡志 下巻 伊香郡郷土史編纂会∥編 名著出版 1972年 S-2170-3 p.345,

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