元禄10年(1697年)に森家が断絶し、その後、松平宣富が津山へ入部する。宣富は徳川秀忠の兄であ る結城秀康の子松平忠直の長男光長の養子である。つまり結城秀康の嫡孫の養子ということになる。 松平忠直は秀康の長男で、叔父秀忠の娘を室に迎えていたが、将軍家に対して不遜な行動がめだち改 易されて豊後国萩原に配流される。 松平光長は父忠直の跡をうけて越前国北庄75万石を継ぐが、越後国高田25万石へ転封となる。天和元 年(1681年)に越後騒動と呼ばれる御家騒動により、光長は改易され、伊予松山藩の預りとなった。 結城秀康の家系は松平氏の中でも越前家と呼ばれ、徳川一門の中で御三家に準ずる格式を誇っていた。 この越前家の嫡流が光長の養子宣富により、津山藩10万石で復活することになる。宣富の実父は光長の いとこにあたる直矩である。 松平宣富の長男である松平浅五郎は6歳で家督を継ぎ11歳で死亡している。そのため再び断絶の危機 にみまわれるが、宣富の弟である松平知清の子長を養子に迎えて断絶を免れた。しかし津山松平家は10 万石から5万石に減封される。長の官位は従四位下越後守で、石高に比べて官位が高く、官位の面で優 遇されている。長の死去の際に一族の松平長孝が養子となり、跡を継いだ。この長孝の子が松平康哉で ある。 松平康哉がまだ光丸と名乗っていた宝暦12年(1762年)に、父長孝の死去により11歳で家督を相続し た。 康哉は明和八年(1771年)から藩政改革に着手する。この改革に大きな影響を与えた人物が儒者大村 荘助と飯室荘左衛門である。しかし康哉の改革はあまり効果をあげなかったようである。 康哉は、8代将軍徳川吉宗の孫で老中となった松平定信と親交があった。このことは松平定信の『宇 下人言』に記されている。定信は康哉を次のように評している。『人となり博学弁才無双、相学、天学 をなして高談をよろこぶ。いかがしけん、予をば至ってしたしみて、つねに来り訪ひ給ふ。相客あれば 来り給はず。これ又偉人なり。」このように定信の康哉に対する人物評は高いものであった。康哉と定 信は政治や経済についてしばしば論じていたようである。 康哉の死去により跡を継いだのは康哉の子松平康乂である。康乂は20歳で死去したため康哉の子で康 乂の弟である松平斉孝が康乂の養子となって跡を継ぐ。 松平斉孝が11代将軍徳川家斉の子を養子にしたために5万石を加増され、藩領が10万石に復旧するこ とになる。ちなみに斉孝の「斉」の字は将軍家斉の一字を賜って改名したものである。このようにみて くると津山松平家は将軍家から特別待遇を受けていたことがわかるだろう。 【参考文献】 「津山市史第四巻近世Ⅱ」(津山市史編さん委員会平成7年) 「日本人の自伝別巻Ⅰ」(平凡社昭和57年) 「鳶魚で江戸を読む」(山本博文中央公論新社平成12年) 「徳川諸家系譜」(続群書類従完成会昭和57年) 「津山藩主森家、松平家一族の歴史」(津山社会教育文化財団森本謙三平成3年)
参考資料:「岡山県総合文化センターニュース」No.436号、H14年11月 http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news436.pdf
「津山市史第四巻近世Ⅱ」(津山市史編さん委員会,平成7年)
「日本人の自伝別巻Ⅰ」(平凡社,昭和57年)
「鳶魚で江戸を読む」(山本博文中央公論新社,平成12年)
「徳川諸家系譜」(続群書類従完成会,昭和57年)
「津山藩主森家、松平家一族の歴史」(津山社会教育文化財団森本謙三,平成3年),
備考:M2004102614552043207
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