「屋後の青山 檻前[らんぜん]の流水 鶴林[かくりん]の双趺[そうふ] 熊耳[ゆうじ]の隻履[せきり] 又是れ空華[くうげ] 空子を結ぶ」 寂室元光が遷化[せんげ] 当日、死の直前にその境地を記した遺偈 [ゆいげ](永源寺蔵・重要文化財)である。 落款[らっかん]には「九月初一日 亡僧元光」と記す。寂室元光は貞治六年(1367)のこの日、 九月一日に七十八年の生涯をとじた。 文字に震えはあるものの、その気迫には見る者に息を飲ませるすごさがある。 寂室元光は南北朝時代の臨済宗の僧で、臨済宗永源寺派の開祖として知られる。鎌倉時代末期の正応三年(一二九〇)美作国高田(現勝山町)に生まれた。 正安四年(一三〇二) 十三歳の時出家した寂室は、はじめ京都東福寺の無為昭元[むいしょうげん]に師事し、 やがて鎌倉禅興寺の約翁徳倹[やくおうとっけん]の門に入って元光の名を与えられた。 徳治元年(一三〇六)徳倹が京都建仁寺に招かれたのにしたがって 京都に移り、京都では、元から来日して南禅寺住職に迎えられていた 一山一寧[いっさんいちねい]にも師事して鉄船の法号を与えられている。 わが国の禅宗教団の原形は中国に求められるが、中国では南宋のころ、 禅僧たちのなかに、政治不安や社会の混乱から、わが国に逃れる者があり、 わが国でも上流武士たちが独自の宗教を求めたこともあって、例えば 北条時頼に招かれて大休正念や無学祖元[むがくそげん]などが来日した。また、 異民族の支配下に置かれた元の時代には、多くの学芸に優れた禅僧 たちが来日する一方、わが国内でも中国文化に憧れて中国へ渡る僧が 増えた。寂室元光もその一人であった。 寂室は三十一歳の元応二年(一三二〇)中峰明本を慕って中国に渡り、 中峰明本[ちゅうほうみょうほん]のもとで、世俗から離れ、清貧に徹する隠遁[いんとん]の禅を学んだ。 寂室の名前は明本から与えられた法号である。 寂室元光が中国から帰国したのは三十七歳の嘉暦元年(一三二六) であった。帰国後、寂室は京都へは帰らず、およそ二十五年間に わたって中国地方を遍歴した。 寂室の詩や文を収録して永和三年(一三七七)に刊行された五山版 『寂室和尚語録(寂室録)』によると、このころ寂室は西祖寺・ 明禅寺・安国寺・滋光寺・菩提寺・美作の田原村などに滞在し、 吉備中山・藤原成親の墓、備前金剛寺、八塔寺、金山寺など県内を 巡ったことがわかる。 観応元年(一三五〇)足利義詮[よしあきら]から相模長勝寺、豊後万寿寺などの 住職に招かれたが、これを断り、その後、約十年にわたって美濃・ 摂津・山城・近江・伊勢・尾張・甲斐・上野などの国々を遍歴した。 ようやく寂室が落ち着いたのは近江守護佐々木氏頼が近江の愛知川 上流の地に一寺を建立して寂室を迎えた延文五年(一三六〇)の ことで、寂室は晩年をここで過ごした。飯高山(のち瑞石山) 永源寺(滋賀県永源寺町)である。 この後も後光厳天皇から京都天龍寺、将軍足利義詮から 鎌倉建長寺に招聘されたが、いずれも固辞、永源寺で清貧の禅を貫いた。 その精神性の高さの故か、寂室の筆跡には、独特の力と美しさがある。 遺墨の中でも、その禅の境地を詠んだ「風撹飛泉」[ふうかくひせん] の詩を自書した墨跡はとりわけ美しい。 貞治五年(一三六六)永源寺を継いだ弥天永釈[みてんえいしゃく]に伝法の証として法衣を、 頼久寺開基となった霊仲禅英[れいちゅうぜんえい]に自賛の頂相[ちんぞう]を与えて、翌貞治六年九月一日 永源寺で示寂[じじゃく]した。高梁市の頼久寺には霊仲禅英に与えた寂室元光頂相が残り、 画像の上部に寂室自筆の賛が認められる。 当館で閲覧できる寂室関係図書には『寂室和尚語録(寂室録)』(享保版)のほか、『寂室和尚伝記』(森本清丸)、 『郷土が生んだ高僧寂室禅師』(浅井悦二)、『寂室和尚』(高田集蔵)、 『寂室元光』(原田竜門)などがある。また、寂室の遺墨集『寂室遺芳』(永源寺)には「風撹飛泉」の詩や 「遺偈」も収録されている。
参考資料:岡山県総合文化センターニュースNo.409、http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news409.pdf
『寂室和尚語録(寂室録)』(享保版)
森本清丸著『寂室和尚伝記』(昭和41年)
浅井悦二著『郷土が生んだ高僧寂室禅師』(昭和63年)
高田集蔵著『寂室和尚』(昭和46年)
原田竜門著『寂室元光』(昭和55年)
田山方南編『寂室遺芳』(永源寺,昭和41年),
備考:M2004102811141143240
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