生涯にわたって花と月を愛し、歌い続けたことで知られる西行は、平安末期の代表的歌人である。俗名は佐藤義清(ノリキヨ)、法名は円位。元永元(1118)年に名門の武士の家に生まれ、鳥羽上皇の北面の武士として出仕していたが、二十三歳の時に出家。以後諸国行脚に日を送り、歌壇の外にいながら、高い尊崇を受けた。 その西行が岡山を訪れているのは、生涯に二度。西行35歳の仁平二(1152)年と51歳の仁安三(1168)年である。『児島風土記』 (昭57・倉敷の自然をまもる会)によると、最初の西国旅行は、平清盛による厳島神社の社殿修造が成り、それへの参拝の途中立ち寄ったものらしい。再度の旅は、嵩徳院の讃岐白峯御陵に参拝し御霊を鎮め、また弘法大師の遺跡を巡礼することが目的であった。この時、児島・渋川・ 真鍋島・牛窓に足跡を残していることが歌集『山家集』から知られる。これらの歌は 『倉敷市史』 第二冊(昭48・永山卯三郎編著)、『吉備の児島の総鎮守』 (平5・武鑓臣夫著)にまとめられている。前者は「山家集に見ゆる倉敷地方」と題して、西行と歌を紹介し、後者はそれのみにとどまらず、児島とのかかわり、西行像にまで考証が及んでいる。 ところで前述の『吉備の児島の総鎮守』は児島にある 清田八幡宮の歴史を調べあげたものであるが、この八幡宮は西行とのかかわりも深く、西行が腰掛けたという腰掛石と歌碑が残っている。 昔見し松は老木(オイキ)になりにけり わが年経たるほども知られて この歌は『山家集』の詞書(コトバガキ)によると、西国旅行の時に、児島という所に八幡宮が祀られていて 社殿に参籠(サンロウ)した。年がたって再びその社を見たところ、松が古木になっていたのを見て詠んだものであるという。しかし、西行が訪れた八幡宮については諸説があり、『玉野市史』 (昭45・玉野市史編纂委員会編)にも紹介されている。 また、『邑久郡誌』 第三編(大2・小林九磨雄編)には長船に西行の腰掛石があるという記述がある。 さて、この旅において西行は、海辺に暮らす海人や商人たちの生業を眼前にし、仏者としてもどうすることもできない人間の根源的な罪と生への営みに、思いをはせている。そしてその思いは渋川で詠まれた歌に端的に表れている。最後にこの歌を挙げて結びに換える。 下り立ちて浦田に拾ふ海士(アマ)の 子はつみ(ツブ貝)より罪を 習ふなりけり
参考資料:「岡山県総合文化センターニュース」No.369、H7,6
『児島風土記』 (昭57・倉敷の自然をまもる会)
永山卯三郎編著『倉敷市史』 第二冊(昭和48年)
武鑓臣夫著『吉備の児島の総鎮守』(平成5年)
玉野市史編纂委員会編『玉野市史』(昭和45年)
小林九磨雄編『邑久郡誌』 第三編(大正2年),
備考:M2004102710571543224
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