わが国における本格的な洋学は明和八年(1771)に杉田玄白や前野良沢によって 腑分け(解剖)が行なわれ、安永三年(1774)に、ドイツ人クルムスの「解剖図譜」の オランダ語訳「ターヘル・アナトミア」が重訳され『解体新書』が刊行されて開花したといわれる。 江戸時代後期になると、ヨーロッパの学問(洋学)が積極的に取り入れられるようになった。 当時洋学はオランダの学問の翻訳や研究が中心であったため「蘭学」と呼ばれた。 多くの蘭学者が輩出したなかには、宇田川玄随[げんずい](号槐園[かいえん])・宇田川玄真(号榛斎[しんさい])・宇田川榕庵[ようあん]、箕作阮甫[みつくりげんぽ]・箕作省吾・箕作秋坪[しゅうへい]・緒方洪庵、児玉順蔵など岡山ゆかりの人々が含まれていた。 中でも津山藩の医師を勤めた宇田川・箕作両家は代々優秀な人材に恵まれ、江戸時 代後期から明治時代にかけて、わが国の学問の発達に大きな功績を残した。 津山藩でなぜ洋学が盛んであったのか。江戸時代後期の津山藩には、たとえば浮世絵師 鍬形恵斎[くわがたけいさい]を藩の御用絵師として召し抱えたことにも見られるように、新しい学問や文化を積極的に先取りしようとする風があったように思われる。 岡山県下最初の洋学者宇田川玄随(1755~97)は代々津山藩の医師として用いられた宇田川家に、道紀の子として江戸で生まれた。 はじめ父の跡を継ぐため漢方医学を学んだが、西洋医学が科学的に優れていることに気付き、幕府の医師桂川甫周[かつらがわほしゅう]に蘭学を、大槻玄沢にオランダ語を学んで、オランダ人ヨハネス・デ・ゴルテルの内科書を翻訳し、『西説内科撰要』を出版して、わが国に初めてヨーロッパの内科医学書を紹介した。 当時、すでに西洋の外科医学書は前野良沢、杉田玄白、桂川甫周などによって翻訳され『解体新書』として紹介されていたが、未だ内科の医学書には翻訳がなかったのである。 玄随の死後、宇田川家は弟子の安岡玄真が養子となって継いだ。玄真(1769~1834)は現在の松坂市の出身。若いころ江戸に出て桂川甫周らに蘭学を学び、大槻玄沢に オランダ語を学んで、稲村三伯の、わが国初の蘭日辞書『波留麻和解[はるまわげ]』の翻訳を手伝った人であった。 玄真は父玄随の著作『西説内科撰要』に新説や訂正を加えて『増補重訂西説内科撰要』を出版したのをはじめ、オランダの解剖学書を翻訳して大著『遠西医範』、さらにその要点をまとめ、これに銅版画家亜欧堂田善[あおうどうでんぜん]の協力で人体解剖図を付けた『医範提稿』を出版した。 玄真には、このほか『和蘭[おらんだ]薬鏡』、『遠西医方名物考』など薬物学の翻訳書もある。 玄真の後は美濃大垣藩の医師江沢養樹の子で、玄真の養子となった養庵(のち榕庵、1797~1846)が継いだ。 父玄真の著作『和蘭薬鏡』・『遠西医方名物考』を増補改訂したことから、榕庵は医学の基礎科学としての科学や薬草に関心が強く、榕庵の著作では西欧の植物学をわが国に初めて紹介した『菩多尼訶教[ぼたにかきょう]』(Botanicaは植物学の意)や『植学啓原』、西洋化学をはじめて本格的に紹介した『舎密開宗[せいみかいそう]』などが知られる。 榕庵が訳した細胞・水素・窒素・酸素などの訳語は今もそのまま使われている。 榕庵の関心は化学や植物学にとどまらなかった。 その著作は度量衡に関するオランダ語を解説した『西洋度量考』、オランダの歴史・地理などを解説した大作『和蘭志略稿』などのほかにも、音楽理論やコーヒーの解説書まで非常に幅広い。 本館で閲覧できる宇田川家三代の著作には、玄随自筆の『西説内科撰要』を紹介した影印本の 『宇田川玄随集』1・2、榕庵の『菩多尼訶教』(復刻)、『植学啓原』、『舎密開宗』などがあり、津山洋学資料館の研究誌『一滴』や吉備洋学資料研究会の『洋学資料による日本文化史の研究』には関係する著作や研究論文も多数収録されている。 また、『郷土にかがやく人々』、『津山の人物』、『学習漫画岡山の歴史』11(学者と文人)、『岡山県史』近世3、『津山市史』第4巻近世2など、宇田川家三代の業績を紹介した著作も多い。
参考資料:『岡山県総合文化センターニュース』No.405、http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news405.pdf
『郷土にかがやく人々』4,日本文教出版,1978
『津山の人物』,津山市文化教会
「学者と文人」『学習漫画岡山の歴史』11,山陽新聞社,1990
「近世3」『岡山県史』,岡山県,1987
「近世2」『津山市史』第4巻,津山市,1995,
備考:M2004110214464943377
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