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来住法悦の生涯について知りたい(岡山県立図書館)

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 森鴎外の短編『高瀬舟』でも知られる京都の高瀬舟は江戸時代のはじめごろ、備前国の川舟が伝えられたものと考えられている。  京都市郊外の大悲閣[だいひかく]に建つ林羅山撰文の記念碑「河道主事嵯峨吉田了以翁碑」には、角倉了以[すみくらりょうい]が慶長十一年(1606)に、丹波国の物資を京都へ運ぶため、大堰川[おおいがわ]に舟運を開いた時、慶長九年に「作州和計河」で見た舟を参考にしたことが記されている。  また、嵯峨地方の地誌『嵯峨誌』には、この時、了以の知人日禛[にっしん]の仲介で、備前国の牛窓から舟夫たちが呼び寄せられたことが概略次のように記されている。    角倉了以画像 (大悲閣千光寺蔵) 画像等の無断複製・転載・改変・放送等は禁じられています。 詳細画像はこちら 日禛は慶長七年(1602)再興された浦伊部(備前市)の妙圀[みょうこく]寺に赴き、千部経読誦会を修して五十日滞在した時、妙圀寺の末寺であった牛窓法蔵寺の檀徒に舟夫が多いことを知り、了以の大堰川開発にあたって、牛窓から十八名を呼び寄せ、付近の人々に操船技術を教えさせたという。 はじめは、川が開ける八月に来て、常寂光寺[じょうじゃくこうじ]を宿所とし、翌年四月に帰るのを例としたが、寛文年間に法蔵寺が廃寺になったのを機に、その檀徒が挙げて京都へ移住、角倉家の計らいで、天龍寺小字大雄寺の荒地を開いて小屋を建て住み着いた。 ここを小屋町といい、のちに角倉町と改称したという。 今も常寂光寺の檀家には、先祖が牛窓から来たと伝える家が多い。 日禛は広橋大納言家の出で、十八歳で京都本国寺の第十六世を継いだ京都における日蓮宗の中心人物の一人。究竟院[くきょういん]と号した。 文禄四年(1595)方広寺大仏殿を建てた豊臣秀吉が、千僧供養会を計画して各宗へ出仕を求めた時、不受不施の宗法を持つ日蓮宗では、宗法を守るべきか、宗法を破ってでも出仕するかで意見が二分することになったが、日禛は日奥らとともに、たとえ権力者の要求でも宗法を破るべきではないと主張した。このためか、日禛は翌文禄五年に本国寺を退去し、小倉山の一角に隠棲[いんせい]した。常寂光寺がこれである。 この究竟院日禛と親交があり、その依頼で牛窓から京都へ舟夫たちを派遣したのは浦伊部の豪商来住法悦[きしゅうほうえつ]であったと考えられている。 法悦は熱心な日蓮宗信者で、妙圀寺を再興し、宇喜多秀家が岡山城を築いた時には、城内に櫓[やぐら]一宇を寄進、秀家が城下町整備にあたって各地から有力商人を呼び寄せた時には、城下の材木町に屋敷を与えられている。また、羽柴秀吉は備中高松からの帰途法悦を訪ねる予定であったとも伝えられる。 法悦が何故それほどの力を持つようになったかは明らかでないが、浦伊部が中世に栄えた港町であったことを考えると、海運に関わって財をなしたことが推測されるのである。 来住法悦と日禛との交流については、『角倉素庵』(林屋辰三郎)や『岡山県史』近世Ⅱが触れているほか、『岡山県古文書集』第四輯(藤井駿・水野恭一郎共編)には来住法悦の関係資料というべき「備前妙圀寺文書」と「来住家文書」が収録されている。 参考資料:『岡山県総合文化センターニュース』No.408、http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news408.pdf 林屋辰三郎『角倉素庵』,朝日新聞社,1978 『岡山県史』近世Ⅱ,岡山県,1986 藤井駿・水野恭一郎共編『岡山県古文書集』第四輯,思文閣出版,1981, 備考:M2004110210385043346

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