1867(慶応3)年に、幕府が外国と結んだ「兵庫港並び大坂に於て外国人居留地を定むる取極」により、川口御舟手(舟番所などが置かれていた。1864(元治元)年に廃止。)の場所が居留地となり、その南側が雑居地になりました。
1868 (慶応4年7月)年9月、大阪が開港したのに続き、居留地26区画が諸外国に競売。その結果イギリス(13区)・フランス(2区)・プロシア(4区)・オランダ(2区)・アメリカ(4区)・ベルギー(1区)に落札されました。居留地全体の面積は約4万5千平方メートル、そのうち26区画の総面積は約2万6千平方メートルでした。当初、商人が多く住み、珍しい品々が売買されましたが、港の大型船舶の出入りの不便さなどもあり、商人は、神戸居留地に移っていきました。その跡には、キリスト教会や、学校、病院などが入居し、ウヰルミナ女学校(後の大阪女学院)・永生女学院(後のプール女学院)・照暗女学院(後の平安女学院)・三一教会の中に設けられた男子校(後の桃山学院)・英和学舎・聖バルナバ病院・信愛孤児院(後の信愛女学院)などが、次々に創設され、特に、女子教育に力が注がれました。
川口居留地は、道路に街路樹が植えられ、石油ランプの街燈が灯るなど、「文明開化」そのものであり、西洋文化の窓口でしたが、1899(明治32)年に廃止され、外国人の永代借地権は、1942(昭和17)年3月にすべて消失しました。居留地の競売や外国人住人の変遷などは、『大阪史蹟辞典』『大阪川口居留地の研究』『川口居留地』『大阪府の教育史』に記載されています。『懐かしい西区と川口居留地写真展』『住まいのかたち暮らしのならい』では、当時の居留地の建物やジオラマの写真をみることができます。
本田小学校西北隅には、1961(昭和36)年3月大阪市が建てた「川口居留地跡」の顕彰碑があります。1992(平成4)年には、その横に記念のモニュメントの石碑が設けられています。また、なにわの海の時空館には居留地のジオラマが展示されています。2013年3月10日閉館)。住まいのミュージアムにも居留地の一部を大きくした展示があります。
参考資料:『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 <当館書誌ID:0000214926>,
参考資料:『大阪川口居留地の研究』 堀田暁生共編 西口忠共編 思文閣出版 1995 <当館書誌ID:0000445309>,
参考資料:『川口居留地』 川口居留地研究会 1号 1988.5 <当館書誌ID:5100124734> 2号 1989.12 <当館書誌ID:5100124733> 3号 1994.7 <当館書誌ID:5100099692>,
参考資料:『大阪府の教育史』梅渓昇編著 思文閣出版 1998 <当館書誌ID:0000656431>,
参考資料:『懐かしい西区と川口居留地写真展』 なにわの海の時空館編集 なにわの海の時空館 2007.4 <当館書誌ID:0011503160>,
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