「駄賃札」が江戸時代にも使われていたのか、ということについてはわかりませんでした。関連する資料は下記のとおりです。
1.『キッコーマン醬油史』の「運輸」の項のp304-305に「駄賃札」のことが記載されています。野田醤油の輸送費のために使われた木札で、河岸への荷出しの際に発行していました。また、「表に一駄分即ち七樽の運賃に相当する金額が書かれ、裏に自家の印が焼印されていて、これが町内でも一般に通用していた」と書かれています。駄賃札の写真も掲載されていますが、いつから利用されていたのかは記載がありません。
2.『野田の醬油経営史料集成』p114-115には「文久四年野田・今上両河岸駄賃値上取極」(キッコーマン文書)という資料が所収されています。「壱駄ニ付上下共銭四拾四文」「小揚駄賃 高札前より銭廿四文 高札先より同廿九文」という表記が見られます。また、「世間一体駄賃値上ケニ相成候故」とも書かれており、上花輪村、中野台村、今上河岸、野田下町の馬持世話人総代や名主などが名を連ねています。
参考資料:1.『キッコーマン醬油史』(キッコーマン醬油株式会社編 1968)|9200332011; ,
参考資料:2.『野田の醬油経営史料集成』(野田市郷土博物館 1985)|9200332049; ,
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