『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「むらまつ・うんがい」で、略歴は「1870・4・22~1938・8・17。日本画家、俳人。愛知郡豊椋村(現東近江市)小田苅(こたかり)に石島佐治右衛門の次男として生まれる。本名由松。別号平安、貞。1883年に神崎郡五個荘町(現東近江市五個荘)川並の塚本定右衛門家で丁稚奉公を始めたが、画に熱心でその才能を認められ、20歳で森寛斎に師事。翌1891年京都の村松家の養子となり、画号を雲外、平安とする。画風は円山派の流れを汲み、写実的な山水画を得意とした。とりわけ富士山の絵を得意とし、「富士百画会」を組織して指導にあたった。国内外の博覧会、展覧会に出品して多数の賞を受賞。書を遠山芦山に学び、俳句や篆刻などでも一家をなした。1935年大津市石山寺辺町に転住、絵画に専念するかたわら石山居(せきさんきょ)俳壇を創始して奥村紫城など多くの門下を育てた。信義に厚く磊落洒脱な性格であった。石山寺無憂園に句碑<啄木鳥や伽藍にひびく嘴(はし)の音>がある。(外村彰)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.350,
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