『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「さかい・ふどう」で、略歴は「1920・4・17~。俳人。滋賀郡堅田町(現大津市本堅田)生まれ。大津市本堅田在住。本名忠一郎。(中略)堅田尋常高等小学校尋常科をへて、1938年大津商業学校(現高等学校)卒業。すぐに三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に入社。43年結婚、三重県一志(いちし)郡久居(ひさい)町(現久居市)に住む。会社に籍をおいたまま応召、京都第十六師団津第33歩兵連隊に新設された中部・久居38部隊に入隊、甲種幹部候補生をへて軍曹となり、内地で終戦。45年復員、三菱重工業を退職して帰堅、家業につく。47年堅田町議会議員(2期8年)、61年堅田町商工会会長(2期4年)、65年から77年まで堅田商店街協同組合理事長を歴任。俳句は三菱重工業入社後の40年から先輩にさそわれて始めていたが、46年堅田ホトトギス会にはいり中井余花朗に師事、「ホトトギス」「玉藻」に投句する。47年高浜虚子、年尾、星野立子らの比叡山、堅田来訪のさいには、堅田の若手俳人らとともに接待、宿泊、連絡、案内等の庶務を担当。(中略)52年の浮御堂そばの虚子湖中碑建立、53年の比叡山横川(よかわ)の「虚子之塔」建設には労務を供し、「西の虚子忌」開催には毎年奉仕にあたった。57年ごろから、中井余花朗・冨佐夫妻の堅田町(当時)における俳句の普及活動に全面的に協力。77年ごろから浮堂が主となって、堅田公民館を会場に作句の勉強会「堅田みぎわ会」を発足させ、その作品の清書を浮堂が行なって、芦屋市の稲畑汀子に送り指導を請うた。(中略)76年浮堂は滋賀県文学祭に作品を応募し、俳句部門の芸術祭賞を受賞、また年尾選の朝日俳壇にも入選。78年「ホトトギス」同人。(中略)83年滋賀文学会理事(俳句部門選者)。85年余花朗のあとを継いで「朝日新聞」滋賀俳壇選者。89年滋賀県ホトトギス会初代会長。(後略)(山本洋)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.147,
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