『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「よしむら・こうさぶろう」で、略歴は「1911・9・9~2000・11・7。映画監督。坂田郡山東町(現、米原市)大字柏原に生まれる。(中略)中学は岐阜の旧制大垣中学校に入学したが、4年生のとき集団サボタージュ事件に関わり停学となり、東京の私立日本中学校(現日本学園高等学校)に転向。大垣中学校時代から校則を破って映画に熱中、転向後は神田淡路町のシネマパレスに通いつめ、外国映画のとりことなる。(中略)1929年日本中学校卒業。(中略)同年5月遠縁にあたる堤友二郎(松竹浦田撮影所所長代理)の世話で、助手見習いとして同撮影所に入社。堤の指示で島津保次郎に師事し、29年の「多情仏心」から37年の「浅草の灯」まで島津の全作品で指導を受ける。一方、撮影所の金須(きす)孝の感化で社会主義思想に関心をもち、築地小劇場の手伝いをしたり、プロレタリア作家たちと交流したりした。34年自身の原作、脚本によるナンセンス短編喜劇「ぬき足さし足」で監督デビュー。(中略)39年島津が東宝に移籍し、島津が松竹の次回作に予定していた岸田国士原作の「暖流」を吉村が引き継いで監督。佐分利信、高峰三枝子主演の「暖流」は大ヒット、キネマ旬報ベストテン7位となり、一躍注目を浴びる。(中略)43年応召、機関銃小隊長として南方戦線に派遺され、のちバンコクの方面軍司令部情報部に配属される。(中略)46年7月に帰還。大船撮影所に復帰し、翌47年「象を食った連中」を撮る。同年、新藤兼人脚本、原節子、滝沢修主演の「安城家の舞踏会」を演出。(中略)この作品はベストテン1位に輝き、のちの脚本新藤、演出吉村というコンビの起点となった。(中略)50年松竹を退社、新藤と2人で独立プロ近代映画協会を設立する。(中略)念願の「偽れる盛装」は翌51年大映京都で完成。(中略)吉村は毎日映画コンクール監督賞を受賞する。(中略)74年足尾銅山鉱毒事件で闘った田中正造を扱った「襤褸(らんる)の旗」を自主製作、したたかな生命力と根性を見せた。著書に『映画のいのち』(76年12月、玉川大学出版部)(中略)などがある。紫綬褒章(76年)、滋賀県文化賞(80年)、勲四等旭日小綬章(82年)を受ける。(中谷克己)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.390-391,
参考資料:
2 滋賀県人名鑑 滋賀県人名鑑編集部∥編 サンブライト出版 1982年 S-2800- 82,
参考資料:
3 滋賀県人物・人材情報リスト 2011 日外アソシエーツ∥編集 日外アソシエーツ 2011年 LB-2800-11,
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