『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「はた・しょうりゅう」で、略歴は「1915・4・15~1994・7・9。新聞記者、宗教家。犬上郡芹谷村?風(現多賀町)に生まれる。滋賀県立八日市中学校(旧制)を経て、大阪外国語学校(現大阪外国語大学)露語部に入学。卒業後、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社する。十五年戦争時に召集、召集解除後はビルマのラングーン支局に派遣され、インパール侵攻作戦の報道などに従事した。敗戦後、滋賀にて結婚、大阪本社外報部に移る。1958年モスクワ特派員となり、翌年モスクワ支局長となる。その後、大阪本社編集局長や東京本社外報部長、取締役常務を歴任。大学時代の同窓でもあった司馬遼太郎、陳舜臣との交友を深め、83年には『街道を行く』(近江散歩)の取材にも同行。晩年、僧籍にあった秦は旧盆には滋賀の浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺に帰り、法要に務め檀家衆との交流を重ねた。著書に『モスクワ1500日』『ソ連・社会主義・人間』『兵戈無用』などがある。79歳にて歿。(荒瀬康成)」とあります。なお、大阪外国語大学は現在大阪大学外国語学部になっています。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.279,
参考資料:
2 滋賀県人名鑑 滋賀県人名鑑編集部∥編 サンブライト出版 1982年 S-2800- 82,
参考資料:
3 滋賀県人物・人材情報リスト 2011 日外アソシエーツ∥編集 日外アソシエーツ 2011年 LB-2800-11,
↧