下記資料から、明治12年5月に居留地12番地に所在するプロイセンの商社「クニフラー商会(L.Kniffler & Co.)」(文献により「キニフル」「クニッフル」「キニッフル」と表記にブレあり)に入社、明治13年6月まで勤めていたことがわかる。クニフラー商会は明治13年に「イリス商会(C.Illis&Co.)」と改称。
なお、瀧川辨三がこの商社でどういう業務についていたか記されている資料は所蔵資料にはみつからず。
『日本のマッチ工業と瀧川儀作翁』p.56 (横田健一 日本のマッチ工業と瀧川儀作翁刊行会 1963年)
『故瀧川先生追憶誌』p.6、p.31、p.77 (兵庫県瀧川中学校 1928年)
『神戸財界開拓者伝』p262(赤松啓介 太陽出版 1980年)
『変化のなかのアジアと日本』p.41(大阪産業大学産業研究所 1995年)
『故瀧川先生追憶誌』p.6、p.31、p.77 (兵庫県瀧川中学校 1928年)
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