『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡水口町宇田」、創築年代は「嘉禄二年(一二二六)」、創建者は「山中中務丞俊信」、形式は「平城」です。城の歴史は「山中城は、甲賀郡水口町西方の甲賀郡中央平地にあり、北方は横田川(野洲川)、南方は杣川に狭まれている。現在は、東方に土塁が残存しているが、神宮文庫所蔵の「山中文書」によれば、一町四方の外堀と、中央約二〇間四方の土塁に囲まれた屋敷である。南方中央に門跡がある。山中城は、東海道鈴鹿峠(甲賀郡土山町)にあったが、山中俊信が鎌倉執権の命で鈴鹿山賊を討った功により、柏木荘を領し、嘉禄二年に築城したものである。のち、山中氏は甲賀武士の盟主として活躍する。(中略)建久五年(一一九四)、山中俊直は山中村地頭職ならびに鈴鹿山盗賊追捕の任をおびる。のち、俊信、有俊、氏俊、実秀と相続し、建武四年(延元二、一三三七)に、近江国守護佐々木氏頼より、柏木御厨内上山村地頭職を得てからは、甲賀郡中央部に足がかりを持ち、勢力を増した。長享元年(一四八七)の乱で、足利義尚の軍を打ち破ってからは、甲賀武士団柏木三家の一家となり、永正四年(一五〇七)、細川澄元の甲賀亡命を助け、天文十一年(一五四二)の北畠具教の近江進攻では二三〇〇人を滅ぼして、これを阻止した(蟹坂合戦)。永禄八年(一五六五)には、甲賀亡命中の足利義昭を助け、同九年には佐和山合戦に出陣した。だが、元亀元年(一五七〇)に織田信長に反旗を挙げるが、六角氏の和睦で休戦となり、甲賀破儀により旧封鈴鹿峠山中村へ移った。慶長五年(一六〇〇)には、徳川氏の許可を得て本城にもどったが、方一町に縮小され、さらに宝暦十三年(一七六三)には方三十間とされ、弘化四年(一八四七)に山中俊哲は水口藩に仕えて、水口藩邸に移った。」とあります。なお、甲賀郡水口町宇田は現在甲賀市水口町宇田に、甲賀郡土山町も甲賀市土山町になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.285,
参考資料:
2 萬川集海 藤林保義∥著 誠秀堂 1975年 5-7830- 75,
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