Quantcast
Channel: レファレンス協同データベース
Viewing all articles
Browse latest Browse all 148274

近江にあった石山(いしやま)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)

$
0
0
『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「大津市石山寺一丁目」、創建者は「山岡資広」、形式は「山城」です。城の歴史は「石山城は、瀬田城主山岡氏が営んだものと伝えられている。その創建は、「山岡系図」(『寛政重修諸家譜』『近江栗太郡志』)によれば、瀬田城主山岡資広(すけひろ)(一四四二年没)が、隠居して瀬田城を嫡男景長にゆずり、石山の古城を修築して移り住んだことに始まるという。なお、この資広は剃髪して光浄院と号したといい、三井寺の光浄院は彼の再興によるものだということである。以後、瀬田城主山岡氏の砦の一つとして、天正年間(一五七三-九二)まで続いたようだ。「山岡系図」では、最後の城主は山岡景猶(かげなお)(玉林斎)で、天正十年七月、本能寺の変の際、兄の瀬田城主山岡景隆と共に明智光秀に抗し、瀬田落城と共に石山城も焼失したと伝えられる。ただし、この石山城については位置を示す史料がない。一方、前述の石山城との関連は不明だが、『信長公記』に石山築城のことがみえる。天正元年二月、「山岡光浄院」(景猶の弟景友、法号暹慶(せんけい))が、将軍足利義昭の誘いで反織田信長の兵を挙げ、石山に城を築いて、伊賀・甲賀衆を率いて籠もった。しかし、普請半ばにして、信長の重臣丹羽長秀・明智光秀らに攻め落とされ、城は破却されている。この後者の城の位置について、『近江輿地志略』は、瀬田川の西岸の伽藍山(がらんやま)の東麓にある石山寺(石山寺一丁目)にあったと記している。一方、『近江国滋賀郡誌』ではこれを寺辺村(石山寺一-二丁目、大平一-二丁目)南部の山上の財川(たからがわ)佐渡守(石山寺の公文所)の砦跡を修繕したものであるとしているから、この説では多羅(たら)川(旧、財川)上流の大平山(大平一-二丁目、石山団地付近)となる。なお、『近江国滋賀郡誌』によれば、同地には空堀が方二町ばかりにわたって残っていたという。」とあります。 参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.287, 参考資料: 2 大津の城 大津市史編さん室∥編 大津市 1985年 S-5211- 85, 参考資料: 3 日本城郭辞典 鳥羽正雄∥著 東京堂出版 1995年 R-5218-ト, 参考資料: 4 滋賀県中世城郭分布調査報告 9 旧滋賀郡の城 滋賀県教育委員会∥編集 滋賀県教育委員会 1992年 5B-5200-9, 参考資料: 5 信長公記 太田牛一∥原著 近藤瓶城∥編 佐藤書房 1972年 S-2800- 72, 参考資料: 6 近江國滋賀郡誌 全 滋賀県∥[編] 宇野健一∥註訂 弘文堂書店 1979年 S-2910- 79,

Viewing all articles
Browse latest Browse all 148274

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>