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近江にあった嶬峨(ぎが)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『日本城郭大系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡水口町嶬峨」。別称は「山屋敷・備後城・堀田陣屋」、創築年代は「元久年間(一二〇四-〇六)」で、創建者は「儀俄権五郎俊光」、型式は「山城」です。城の歴史は「嶬峨城は、山屋敷と備後城、そして江戸時代の堀田陣屋から成る山城である。山屋敷と呼ばれるこの城跡は、嶬峨庄の東南部、南方を小佐治(甲賀町)と接する丘陵台地の麓端上に位置する。(中略)また城跡の東方山際にも、江戸時代に当地を領有した堀田外記の陣屋跡があるが、この山屋敷の一部に陣屋を設けたという資料の記録から、この山すべてが城郭遺構と考えられる。嶬峨城(山屋敷)は東西約五〇m×南北約四〇mの方形プランの郭であり、堀などの遺構はなく、東側土塁高は外側一五m、内側三mで急斜面の山腹へと続き、南側土塁高は外側六m、内側一mで、外側は山道をへだてて、なだらかな山腹に続いているが、西側、南側土塁の分かれ目に、三日月形の小さな台が二か所あります。これは甲賀郡内の城跡にはみられない遺構である。またその両土塁の外にも東西八m×南北四mの平地がある。儀俄氏は蒲生氏の分流で権五郎俊光を祖とし、元久元年に観学院領嶬峨庄の下司となり、儀俄氏を称した。(中略)永仁四年(一二九六)左衛門太郎頼秀は嶬峨庄預所職並定使、さらに下司新給五町を給られる。知俊、氏秀と続き、永和元年(天授元、一三七五)、嵯峨庄地頭職に補せられる。また、近江国守護佐々木高経からは内談衆に任ぜられ、至徳二年(長享元、一三八四)には、室町将軍足利義満に地頭他諸職を任ぜられた。長享元年(一四八七)には、鈎(まがり)の陣で、儀俄越前守は守護六角高頼のために戦功をたて、甲賀武士五十三家に数えられる。永禄十一年(一五六八)、主家の六角氏は信長に滅ぼされるが、蒲生氏は信長の勧誘に応じて、早くその配下に属したために、儀俄氏も所領を安堵されるが、天正十三年(一五八五)には、甲賀破儀のため城・邑ともに没収せられ、滅亡する。(後略)」とあります。なお、甲賀郡水口町嶬峨は現在甲賀市水口町嵯峨になっています。 参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.278-279, 参考資料: 2 滋賀県中世城郭分布調査 2 甲賀の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1984年 5B-5200-2, 参考資料: 3 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-2,

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