『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡水口町古城山」、別称は「水口城」、創築年代は「天正十三年(一五八五)」、創建者は「中村式部少輔一氏」、形式は「山城」です。城の歴史は「岡山城は、水口町の東方の独立丘陵の山頂にある。この山頂は、大蔵山、大岡山、大丘、古城山などと呼ばれている。(中略)この城は、天正十三年(一五八五)の“甲賀破儀”とよばれる甲賀武士の改易にともなって、豊臣秀吉の命を受けた中村一氏が甲賀郡を支配するために築城した城である。“甲賀破儀”とは、天正二年(一五七四)の秀吉による和歌山雑賀(さいが)城水攻めの際に、甲賀武士の受け持つ堤がくずれて戦機を失ったとういう理由から、甲賀武士を改易し、民籍に落としたとういう事件であるが、実際には、織田信長が甲賀を攻める時、途中で近江国守護六角承禎と和議が成立して、甲賀武士を壊滅できなかったこと、そして、雑賀城攻めに、徳川家康の特使が甲賀武士に出会い、はげましの言葉をかけていることなどから、豊臣秀吉が理由をつけて甲賀武士を改易したと考えられる。岡山城の築城には、三雲城(甲賀郡甲西町)の石材、矢川神社別当寺教覚坊・円乗坊(甲賀郡甲南町)などの用材ならびに古瓦、礎石などが運ばれたと伝わる。山頂には、十一間四方の本丸、二の丸(三十二間×三十一間)、三の丸(三十五間×十七間)、屋敷(六十三間×十四間・二十四間×二十二間)が築かれた。城主の中村式部少輔一氏は、甲賀武士・滝氏の一族で、天正五年八月、豊臣秀吉の陣営に加わり、堀尾吉晴とともに天王寺の僧兵を破って戦功をたて、のち秀吉に忠勤を励み、この功により岸和田城(大阪府)の城主となり、従五位下式部少輔に任ぜられ、根来(ねごろ)衆(和歌山県)を攻めた。同十三年、甲賀・蒲生郡に転封され六万石を給され、岡山城を築く。同十八年、駿河国府中に転封して十四万二千二百石を給さる。同時に、増田右衛門尉長盛が岡山城主となる。さらに文禄四年(一五九五)、増田長盛が郡山城(奈良県)へ転封すると同時に、長束大蔵大輔正家が城主となった。(後略)」とあります。なお、甲賀郡水口町古城山は現在甲賀市水口町水口に、甲賀郡甲西町は湖南市に、甲賀郡甲南町は甲賀市甲南町になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.275-276,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 2 甲賀の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1984年 5B-5200-2,
参考資料:
3 図説中世城郭事典 第2巻 村田修三∥編 新人物往来社 1987年 S-5200- 87,
参考資料:
4 近江城郭探訪 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県文化財保護協会 2006年 S-2900- 06,
参考資料:
5 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-2,
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