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近江にあった五番領(ごばんりょう)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡安曇川町五番領字西良」、創築年代は「応安二年(正平二十四、一三六九)」、創建者は「山崎兵庫頭」、形式は「平城」です。城の歴史は「(中略)五番領城に関する唯一の文献ともいうべき『近江輿地志略』には「五番領村に在り。平城也。山崎兵庫頭居住の址なり」と記されているのみで五番領城が具体的に村の中のどういう所にあったのかは、今日までほとんど知られることはなかった。また『高島郡志』にも城のことは書かれていても、その位置については触れられていない。ところが江戸中期から明治初年にかけての「五番領村絵図」(区有)をみると、その中に城の一部と推定される堀が描かれたものが二点ばかりあるのである。一つは享保十七年(一七三二)に五番領村が幕府の直轄地になった際に作られた絵図を、元文五年(一七四〇)に再度写して役所へ納めた時のもの。もう一つは、寛保三年(一七四三)に作られたものである。それによると、信広寺と中村新右衛門(現在、中村壬子三氏)の屋敷地の裏側に南北に細長い「西堀」があって、その堀はさらに東へ折れてL字形を呈している。この西堀は、江戸時代全般を通じて灌漑に利用されたと思われ、水をたたえていることがわかる。しかし西堀は、天保十三(一八四二))の絵図には載っておらず、おそらくその大半は土塁をもって埋め、寺域と屋敷地の拡張を江戸時代末期頃に行なったのであろう。とにかく、これらの絵図によって、五番領城は西堀と東側の道路とに挾まれた、信広寺・中村新右衛門および天満宮などの敷地一帯にあったものと推定される。したがって、五番領城は六〇m×六五mのやや南北に長い方形プランの平城であって、空堀跡をいれると七四m×七九mの規模を計ることができる。(後略)」とあります。なお、高島郡安曇川町五番領字西良は現在高島市安曇川町五番領になっています。 参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.302-303, 参考資料: 2 滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城 滋賀県教育委員会∥編集 滋賀県教育委員会 1991年 5B-5200-8, 参考資料: 3 高島郡誌 全 高島郡教育会∥編著 饗庭昌威∥増補編 饗庭昌威 1972年 S-2110- 72,

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