『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡新旭町新庄」、創築年代は「戦国時代」、創建者は「多胡上野・新庄伊賀守実秀」、形式は「平城」です。城の歴史は「(前略)新庄城は、当平野のほぼ中央、安曇川左岸に位置し、当平野の北半分を占める新旭町の南部、新庄区の東にある新旭町立南小学校の南に存在する。当城の創建者については二説がある。一説には、当城の北西にあたる饗庭野(あいばの)丘陵の東南端、清水山にある清水山城の出城として築城され、清水山城主佐々木越中守の臣多胡上野が守備していたといわれ、また一説には、高島佐々木一族の新庄伊賀守実秀が居住していたともいわれている。実秀については、天文十一年(一五四二)、甲賀郡蟹ヶ坂戦での出陣に際して戦功をあげている。多胡上野は、近くに多胡という小字名があり、ここが侍屋敷跡とすれば、本城の家臣の一人と考えられ、実秀は本地域の名称を冠していることから、城主の可能性が強いといえるが、いずれにしても確証はない。元亀三年(一五七二)、革命児織田信長の高島郡征服により郡内の勢力図を一変させ、多くの城が廃城となった。当城についても、天正元年(一五七三)、織田信長の臣磯野丹波守員昌が郡内支配のため入城したが、同六年の員昌の逐電ののち、養子織田信澄が高島町に大溝城を築いたため、その際に移築され、廃城になったといわれている(一説には大溝城の築城は同九年、員昌・信澄は高島町打下(うちおろし)城に居住し、その後、大溝城に移住したともいわれている)。(後略)」とあります。なお、島郡新旭町新庄は現在島市新旭町新庄になっています。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.303,
参考資料:
2 日本城郭辞典 鳥羽正雄∥著 東京堂出版 1995年 R-5218-ト,
参考資料:
3 滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城 滋賀県教育委員会∥編集 滋賀県教育委員会 1991年 5B-5200-8,
参考資料:
4 高島郡誌 全 高島郡教育会∥編著 饗庭昌威∥増補編 饗庭昌威 1972年 S-2110- 72,
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