『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「近江八幡市金剛寺町」、別称は「金田館」、創建者は「佐々木頼綱」、形式は「平城」です。城の歴史は「近江守護職の佐々木氏は、(中略)佐々木頼綱の時に、湖岸により近い近江八幡市金田に居館を移した。その後、この居館に接して佐々木氏頼が金剛寺を創建したため、寺名が地名になり、居館もいつしか金剛寺城とよばれるようになったようである。金剛寺城をめぐる最初の戦いは、文明元年(一四六九)の京極氏との抗争で、この時、金剛寺が焼失している。金剛寺城が六角氏の拠点であったことは、長享元年(一四八七)、足利義尚による六角高頼征討の際、幕府の先鋒が八幡城と金剛寺城を攻めようとしたことや、明応元年(一四九二)の再度の征討の時は、義材が、この金剛寺城を陣所にしていることなどによって知られる。その後、金剛寺城は、観音寺築城と共に廃棄されたようである。現在、金剛寺城の遺構は明らかでなく、付近に、古城(ふるしろ)とか大手などの地名が残されているのみである。」とあります。
参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.252,
参考資料:
2 滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀県教育委員会 1986年 5B-5200-4,
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